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霧祓探偵事務所の怪異録  作者: aik
おかえり、ただいま

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22/40

4-3

 蓮月は禁書庫で知った魂同調という自殺的な治療法に震えながら祐市の寝室に戻った。

(どうすれば私が恐怖なく兄さんの魂に……)

 だが祐市の体内の魂喰菌は蓮月の決断を待ってはくれなかった。

 蓮月が部屋に入ったその瞬間。

 祐市の体が布団の上で弓なりに跳ねる激しい痙攣を起こした。


「兄さん!?」


 蓮月が慌てて駆け寄る。

 祐市の胸元で異変が起きていた。

 あの黒百合の蕾がパッパッと音を立てるかのように一斉に咲き誇ろうとしていた。

 祐市の心の闇を栄養にして呪いだけが不気味なほど元気に、その最終段階に入ったのだ。


「あ……ぁ……」


 祐市の呼吸が浅く途切れ途切れになっていく。

 蓮月は悟った。

 父も祖父も帰ってこない。

 呪いは待ってくれない。

 魂喰菌は祐市の命を食い尽くす 寸前まで迫ってきている。

 蓮月達にはもう時間が残されていなかった。

 彼女は禁書庫で見つけたあの禁術を今この瞬間に実行するか最愛の兄の死を受け入れるかその二択だけを突きつけられた。


「兄さん……兄さん」


 蓮月は祐市を死なせまいと必死に彼の手を握りしめる。

 その瞬間。

 フッとまるでロウソクの火が消えるかのように。

 祐市の体が全ての痙攣を止めた。

 祐市の荒い息遣いも止まった。

 時が止まった。

 祐市の胸の上。

 彼を蝕んでいた黒百合が最後の一枚の花弁を開いた。

 宿主の魂を食らい尽くし彼の絶望を栄養にして完璧な満開を迎えたのだ。


「あ……」


 蓮月はその場に立ち尽くす。

 部屋には耳が痛くなるほどの静寂だけが残された。

 蓮月は震える手で祐市の胸に耳を当てる。


「…………」


 心音が聞こえない。

 父も祖父もいない。

 兄は死んだ。

 禁書庫で見つけた魂同調の知識ももはや間に合わなかった。

 蓮月は冷たくなり始めた祐市の体を前にただ立ち尽くすことしかできなかった。

 祐市の心音は止まった。

 彼の胸の上では黒百合が宿主の死を祝うかのように満開を迎えていた。

 蓮月は冷たくなり始めた兄の亡骸を前に立ち尽くしている。

 すべてを失った。

 絶望が彼女の小さな心を凍らせていく。

 涙が熱い雫となって畳にこぼれ落ちた。

(いや……いやだ……!)

 その時。

 蓮月の脳裏に本能的な警鐘が鳴り響いた。

 心肺停止から脳、あるいは魂が不可逆的な死を迎えるまでもう時間がない。

 絶望している暇もない。

 蓮月の脳裏に5年前の記憶が蘇る。

 絶望の蔵にいた自分の手を祐市が強く引いてくれたあの感触。

(兄さんがいなければ私はここにいない)

(兄さんが私を蓮月にしてくれた)

 蓮月は溢れる涙を手の甲で乱暴に拭った。

 彼女の瞳から絶望が消え10歳の少女とは思えない狂気的とも言える決意の光が宿る。


 「祐市兄さんが死ぬなら私も一緒に死にます……」


 それは諦めではなかった。

 祐市がいる場所が死の淵ならば自分もそこへ行く。

 (独りになんてさせない)

 たとえ地獄の底でもあの時の兄が私の手を引いてくれたように今度は私が兄の手を引いて連れ戻す。

(待ってて、兄さん)

 蓮月は祐市の亡骸にそう囁くと震える手で小さな刃物を手に取った。

 彼女は祐市の命を死から奪い返すため自らの命を賭した魂同調の儀式を開始する。

 祐市の心肺停止から約1分が経過。

 兄の不可逆的な死まで残り時間は2分もない。

 彼女は禁書に記された魂同調の儀式をたった一人で強行する。

 彼女は小さな刃物を握りしめためらわず自分の指先を深く切り裂いた。

 鮮血が溢れる。

次に祐市の冷たくなった指先を取り同じように小さく切りつけた。

そして二人の血を混ぜ合わせる。

 蓮月は祐市の胸に両手を置いた。

 彼女は祐市の冷たい顔を見つめる。

 目を閉じすべての恐怖 を覚悟で塗りつぶした。

(兄さん、今、行きます)

(あなたが私を孤独から救ってくれた。私もあなたを独りにしない)

 蓮月が禁書庫で暗記した呪文の最後の一言を唱えたその瞬間。

 彼女の意識は肉体から引き剥がされるような強烈な重力のようなものと共に祐市の冷たい体を扉としてその精神世界、5年前の赤い霧の村へと引きずり込まれていった。

 現実世界では蓮月が祐市の上にぐったりと倒れ込み意識を失う。

 彼女の命を賭した戦いが今始まった。

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