4-2
宗顕と源蔵が京都へ向かい数時間が過ぎた。
屋敷は不気味なほど静まり返り最強の祓魔師が消えた不在の重みが幼い二人の肩にのしかかる。
蓮月は父に叱責され部屋にこもったままの祐市が心配になり夕食の膳を盆に載せて彼の部屋の前に正座した。
「兄さん、入ります……」
返事はない。
蓮月がそっと障子を開けると祐市は机に突っ伏したまま動かなかった。
「兄さん?」
眠っているのか。
蓮月が盆を置き祐市の肩にそっと触れた瞬間、着物越しに尋常ではない熱が伝わってきた。
「熱が!」
蓮月は慌てて祐市の体を支え布団へと仰向けにさせる。
祐市の顔は青白く呼吸は荒く苦しげにうわ言を漏らしている。
「しっかりしてください、兄さん!」
蓮月が彼の襟元を緩め汗を拭おうとした時その手が止まった。
祐市の胸元。
その肌にまるで墨で描いたような小さな黒百合の蕾が不気味に浮かび上がっている。
それは明らかに呪いの兆候だった。
祐市の体は衰弱しているのにその黒い蕾だけは今にも咲き誇らんばかりの不気味な生命力に満ちていた。
蓮月は息を呑んだ。
これはただの病ではない。
(兄さんが……呪いに?)
父も祖父もいない。
助けを呼べる大人は誰もいない。
蓮月はたった一人でこの絶望的な呪いと向き合うことになった。
彼女の戦いが今この瞬間から始まった。
真夜中。
祐市の呼吸はますます荒く浅くなっている。
高熱で荒い息を繰り返し時折苦しげに呻いた。
蓮月は必死に濡れた手ぬぐいを替える。
だが兄の熱は一向に下がる気配がない。
それどころか祐市の胸に浮かんだ黒百合の蕾はその黒々とした花弁を今にもこじ開けようと不気味なほど元気に脈打っていた。
(どうしよう、このままじゃ、兄さん死んじゃうかも……)
蓮月の瞳から涙がこぼれ落ちる。
父も祖父もいない。
この呪いを祓える大人は誰もいない。
その時。
蓮月の脳裏にある場所が浮かんだ。
祐市に役立つために書庫に通っていた時、父からあそこには入るなと言われていた書庫。
(あそこなら……)
蓮月は息を呑んだ。
(父様が隠しているほどの場所ならこの呪いを祓う方法が書いてあるかもしれない!)
蓮月は濡れた手ぬぐいを握りしめたまま立ち上がった。
父の言いつけを破るその恐怖よりも兄を失う恐怖が勝った。
彼女は祐市の寝室を飛び出した。
真夜中の霧祓邸の冷たい廊下を小さな足音も立てずに走る。
そして屋敷の最奥。
埃の匂いが立ち込める重々しい扉の前で足を止めた。
蓮月は禁書庫の中へと入った。
彼女は懐から持ち出した携帯用のランプに震える手で火を灯す。
ぼんやりとした明かりが照らし出したのは壁一面床から天井までを埋め尽くす常軌を逸した量の古文書や禁術の巻物だった。
(無理かも……)
彼女は父の禁忌を破った負目とこの膨大な情報量を前に一瞬絶望して泣きそうになった。
(こんなところからどうやって、兄さんを助ける方法を……)
その時蓮月の脳裏に高熱で苦しむ祐市の青白い顔と5年前のあの村で祐市が自分の手を強く引いてくれたあの感触が蘇った。
(兄さん……)
蓮月は手の甲で涙を拭う。
彼女の恐怖が祐市を失う恐怖によって上書きされた。
(私が助ける!)
彼女の瞳にこの部屋の闇よりも強い決意の光が宿る。
蓮月はランプを高く掲げ絶望的な量で積み上げられた禁書の山へとその小さな一歩を踏み出した。
祐市の寝室では時間だけが冷酷に過ぎていく。
高熱でうなされる祐市の胸の上であの黒百合が黒い花弁を元気に一枚また一枚と開いていく。
祐市のタイムリミットが刻一刻と迫っていた。
一方、禁書庫は蓮月の戦場だった。
彼女はランプの明かりを頼りに泣く時間も惜しんで本を片っ端からめくっていた。
(兄さんの症状は高熱、そして胸に咲く黒い花)
蓮月は祐市の症状を頼りに禁書庫の膨大な巻物から呪詛の棚を片っ端から引き抜く。
複数の古文書を床に広げ常人離れした速度でページをめくり情報を相互参照させていく。
(宿主の心の闇を苗床とし念華と呼ばれる子実体、黒百合を咲かせる)
間違いない。
彼女はある巻物で魂喰菌の記述を発見した。
(でもなぜ兄さんがこんな呪いに?)
蓮月は祐市の最近の行動を必死に思い返す。
今日の午後、あの廃屋敷での任務。
(あの屋敷、住人の衰弱死、菌床!)
パズルが、はまった。
(兄さんはたしかあの時父様の言いつけを破ったって……一人で菌床を斬りつけ呪いの胞子を……!)
蓮月は震える手で魂喰菌の巻物を手繰り寄せ治療法の項目を探す。
(あった、治療法!)
蓮月はその巻物に記された唯一の治療法の項目に指を走らせる。
そこに書かれていたのは彼女が探していた希望そして彼女が想像しうる限り最悪の絶望。
「魂同調」
蓮月は魂喰菌の巻物を握りしめていた。
治療法が見つかったという一縷の希望に震える指でその治療法魂同調の詳細を貪るように読み進める。
だが巻物を読み進めるにつれ蓮月の顔から血の気が引いていく。
そこに書かれていたのは希望ではない。
10歳の少女にはあまりにも酷な、最悪の事実だった。
(苗床は宿主の心の闇)
蓮月はこの呪いの本質をここで初めて理解した。
(宿主が抱えている心の闇を乗り越えない限り決して消滅しない……)
そしてその魂同調の実行条件。
『術者は自らの魂を宿主の精神世界に同調させ呪いの核に触れねばならない』
『ただし術者が一瞬でも恐怖すれば呪いは宿主を見限りより新鮮な魂に逆流、寄生する』
『そうなれば、宿主もろとも即死する』
カタンと蓮月の手から巻物が滑り落ちた。
治療法は見つかった。
しかしそれは子供が一切の恐怖なく精神世界に飛び込み呪いの本体を掴み出すという事実上の自殺宣告だった。
蓮月が禁書庫の冷たい床にへたり込んだその瞬間。
「……う……ぁ……」
廊下の奥祐市の寝室から兄の苦痛に満ちた呻き声が微かに聞こえた。
蓮月ははっと顔を上げた。
兄はまだ生きている。
まだ、戦っている。
二人の運命はもう後戻りできない地点に到達した。




