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霧祓探偵事務所の怪異録  作者: aik
おかえり、ただいま

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20/40

4-1

 大正13年、霧祓邸の道場、昼下がり。

 しんと静まり返った道場に湿った空気を切り裂く音だけが響いていた。

 12歳になった霧祓祐市が木刀を振るっている。

 彼の振り方はあの地獄の中で見た、父の宗顕が禍ノ御子を祓った姿を強迫観念に取り憑かれたかのようただひたすら模倣するものだった。

(足りない)

 祐市の顔は年齢に似合わず穏やかに澄ましている。

 だがその瞳の奥には冷たい執着の色が浮かんでいた。

(まだ足りない。あの時の父上のようにもっと強く)

 あの村で痛いほど味わった無力感。

 あの深い絶望が彼を力こそが絶対の答えであるという考えへと駆り立てていた。


「フッ、フッ」


 荒い息が漏れる。

 道場の隅。

 10歳になった蓮月が床の上に正座しその姿をじっと見つめていた。

 彼女の膝の前には兄のための手ぬぐいと水差しが置かれている。

 彼女の表情に兄の成長を喜ぶ色はない。

 あるのは心配と不安だった。

 自分を救ってくれた兄があの日をきっかけに徐々に力という呪縛に囚われてしまっていることを彼女は敏感に感じ取っていた。


「ハァッ」


 道場に祐市の荒い息遣いだけが響く。

 彼は自らが求める強さの幻影を追い彼女はそれに飲み込まれそうな兄の姿を案じる。

 二人の穏やかだがどこか危うい日常がそこにあった。


 道場での鍛錬を終え汗を拭いながら廊下を歩いていた祐市がふと足を止めた。

 開け放たれた書庫の扉の奥から不思議そうな少女の声が聞こえてくる。


「力は穢れを祓う。されど呪いは力にて祓えず?」


 書庫の中では蓮月が机に広げた分厚い古文書である霧祓家先祖の手記を必死に読み解こうとしていた。

  彼女は自分の力では祓魔師になれないことを知っている。

 だからこそせめて知識で兄の役に立ちたい。

 その一心で毎日この埃っぽい書庫に通い詰めていた。


「兄さん」


  祐市の気配に気づいた蓮月が顔を上げ古文書の一節を指差した。


「これ、どういう意味でしょう?」


 祐市はその一節を覗き込み穏やかに微笑んだ。

 まるで幼い妹の可愛らしい勘違いを諭すかのような優しい笑みだった。


「……そうかな」


 彼は蓮月の目を静かに見つめる。

 その瞳は穏やかだが笑ってはいない。


「俺はそうは思わないよ」


 あの日のトラウマが彼に囁く。

 力がなければ守れない。

 力がなければ奪われる。


「どんな呪いもそれより強い力で祓えばそれで終わりだ。……ただそれだけのことだと思うけど」


 祐市は蓮月の疑問を笑顔のまま否定した。

  彼の答えに迷いは一切ない。

 蓮月は何も言えなかった。

 彼女は兄の笑顔と古文書の両方を交互に見つめただ不安げに眉をひそめるしかなかった。


 数日後、帝都近郊。

 その廃屋敷は住人が次々と原因不明の衰弱死を遂げたことで霧祓家の調査対象となっていた。

 見習いとして宗顕に同行した祐市は屋敷に漂う瘴気の濃さに眉をひそめる。


「……祐市」


 宗顕は瘴気が屋敷全体に広がっていることを察知すると息子に向き直った。


「効率的に発生源を探す。俺は上階をお前は地下を調べろ」

「はい」

「いいか」


 宗顕は息子の目に宿る焦りを見抜き強く釘を刺す。


「何かを見つけても、絶対に手を出すな。すぐに私を呼べ」


 祐市は頷いた。


 二手に別れてからしばらく経つと湿気とカビの臭いが充満する地下室で祐市は瘴気の発生源を発見した。

 部屋の隅。

 この家を苗床にして増殖した呪いの菌床が心臓のように不気味に脈打っていた。


(……これか)

 祐市は刀の柄に手をかける。

 父の言いつけが脳裏をよぎる。

(すぐに俺を呼べ)

 ここで父を呼ぶのが正解だと彼にも分かっていた。

 だが彼の脳裏を5年前のあの光景がよぎる。

 蓮月を奪われた無力感。

 泥の中で惨めに泣いた自分。

 そしてすべてを力で祓った父の圧倒的な背中。


(父上を呼ぶ……?)

(これくらい、俺だけで……!)


 彼は父を呼ぶという選択肢を捨てた。

 祐市は菌床に向かって踏み込んだ。


「祓う」


 刀が閃き脈打つ菌床を真っ二つに斬り裂いた。

 刹那、菌床は破裂。

 致死性の呪いの胞子の雲が地下室全体に撒き散らされた。


(しまった……!)

 祐市が息を止めるより早く胞子は彼に殺到した。


「祐市ッ!」


 凄まじい呪いの気配の爆発を察知した宗顕が地下室に駆け込んできた。

 宗顕は胞子の残滓に包まれる息子を見てその顔色を変える。

 彼は慌てて結界を張る。

 宗顕は息子の功焦りを悟り激昂した。


「馬鹿者ッ! なぜ私を呼ばなかった!」


 祐市は自らの過ちと父に力を認められなかったことへのショックでただうなだれるしかなかった。


 同日夜、霧祓邸の書斎の空気が張り詰めていた。

 たった今、京都の協力者から届いた緊急の呪符が桐の箱の上で淡い光を放っている。

  宗顕はその通信内容を険しい顔で読み上げ、先代の源蔵は腕を組んで目を閉じていた。


「京都の霊脈に異常発生。かのむしばみの根が活性化」

「すでに念華の兆候を確認。このままでは帝都にも胞子が到達する恐れありと」

「蝕みの根の本体か」


 源蔵が目を開く。


「これほどの相手となれば私たち二人で行かねばなるまい」


 宗顕も頷く。

 これは霧祓家の当主と先代が揃って出立せねばならない、最優先の災厄だった。

 書斎の入り口では祐市と蓮月がそのただならぬ雰囲気を息を詰めて見守っている。

 祐市は自分が同行できないこと、力が足りないことに唇を噛む。


「祐市」


宗顕が出立の準備をしながら息子を呼んだ。


「お前はこの家を守れ。いいな」


 その声には先ほどの廃屋敷での功焦りに対する戒めが込められている。

 宗顕は祐市の最近の様子を危惧していた。

 そして宗顕は蓮月に向き直る。


「蓮月、私がいない間祐市を見張っていてくれ。あいつは今自分を見失いかけている。君が兄を支えてくれ」

「……はい」


 蓮月は兄の危うさを理解しこくりと頷いた。

 宗顕と源蔵が夜の闇へと出立していく。

 最強の祓魔師である二人が霧祓邸から不在となった。

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