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千葉の運転する黒塗りの乗用車が旧華族の屋敷の重い鉄門をくぐる。
帝都でもまだ珍しいそのフォード製の車両は怪異という特殊な脅威に対処する警視庁怪異対策課だからこそ、優先的に割り当てられた捜査車両だった。
昨日までの雨が残り、庭の木々は湿った空気を重く含んでいた。
車が玄関ポーチに停まる。
祐市が先に降り、後部座席のドアを開けて蓮月をエスコートした。
「ひどい空気ですね」
車から降り立った蓮月が屋敷を見上げながら小さく呟いた。
彼女の鋭い観察眼 が、屋敷全体を覆う異様な雰囲気を捉えている。
「ああ。淀んでいる」
祐市も頷く。
ただ空気が重いだけではない。
屋敷は不気味なほど静かだった。
鳥の声も、使用人の立てる物音一つしない。
「千葉さん、当主の方は?」
「奥の客間でお待ちです。昨夜からひどく怯えていらっしゃるそうで」
三人が足を踏み入れた玄関ホールは外光が届かず薄暗い。
千葉刑事に案内され、長い廊下を進む。
きしむ床板の音だけがやけに大きく響いた。
客間に通されるとそこには憔悴しきった様子の男が一人座っていた。
年の頃は四十代だろうか。
上質な着物をまとっているがその顔は生気を失い、土気色をしていた。
焦点の合わない目が宙を彷徨っている。
「当主の、佐伯様です」
千葉の紹介にも、男は虚ろな反応しか返さない。
「霧祓探偵事務所の霧祓祐市と申します。こちらは妹の蓮月。ご依頼の件、お引き受けいたしました」
祐市は学生服のまま ながらも完璧な所作で一礼する。
彼の穏やかで理知的な声に佐伯当主はびくりと肩を震わせた。
「あ、ああ。来てくれたのかね」
「はい。早速ですが現場を拝見しても?」
「好きにしたまえ。私は、私はもう……」
佐伯はそれだけ言うと、再び俯いてしまった。
「兄さん、行きましょう」
「ああ」
祐市と蓮月は目配せし、千葉と共に客間を出た。
「まずは、執事殿が亡くなっていた現場へ」
千葉に案内されたのは二階へと続く階段のすぐ脇にある廊下だった。
床には警察の使った白墨の跡が残っている。
「ここで、首を絞められた状態で……」
千葉が説明を続ける傍らで蓮月は祐市や当主を意にも介さず、すっと現場の中心に入った。
彼女はゆっくりと屈み込み、床板の僅かな染み、壁の埃、そしてそこに残る空気の匂いまで確かめるかのようにその五感を研ぎ澄ませる。
祐市は一歩下がり蓮月の領域を邪魔しない。
彼の役割は探偵ではなく蓮月を守る守護者だ。
祐市の意識は蓮月ではなく周囲の気配、この屋敷そのものが放つ禍々しい圧に向けられていた。
やがて蓮月が静かに立ち上がる。
「何もありません、物理的な痕跡は何も。指紋も争った跡も。警察の報告通りです」
冷静な声。
だがその視線は現場から動いていない。
彼女が見つめているのは執事の倒れていた場所のすぐ脇にある古びた扉だった。
「千葉刑事。あの部屋は?」
「ああ、そこは仏間です。ですが……」
「ですが?」
「この屋敷の奥様が1年前亡くなられて以来、ずっと鍵がかかったままで……」
千葉が言い淀んだ瞬間だった。
蓮月がふらりとまるで何かに引き寄せられるかのようにその仏間の扉へと歩み寄る。
祐市も即座に一歩詰め、蓮月の肩に手をかけられる位置に立った。
蓮月が扉に触れようとし、その白い指先が気の板に触れる数センチ手前でぴたりと止まった。
「兄さん」
「ああ」
彼女の声はいつもの冷静さを保ちつつも僅かな緊張を帯びていた。
蓮月は一度目を伏せ、再び開く。
「見られています」
だが、廊下には三人以外誰もいない。
蓮月はそう言って扉を睨みつけた。
鍵がかかっているはずの仏間。
その隙間から濃密な怨嗟の気配がじわりと漏れ出していた。
仏間の前から立ち去る蓮月を祐市は黙って見守る。
扉の奥から漏れ出す怨嗟は蓮月が離れると同時にすっと内側へ引いていった。
まるでこちらの出方を窺うかのように。
「千葉さん」
蓮月は廊下を歩きながら背後の刑事に声をかけた。
その声は先ほどの緊張を感じさせない、いつもの冷静なものに戻っている。
「はい」
「使用人の方々からお話を伺いたいのですが。全員集めていただけますか」
「全員ですか?」
「ええ。何かこの屋敷の事情を知る方々とお見受けしましたので」
蓮月の言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
場所は日当たりの悪い一階の食堂に移された。
長いテーブルを挟み祐市と蓮月が並んで座る。
千葉刑事はその脇に立つ。
向かい側にはこの屋敷の使用人たちが硬い表情で座らされていた。
一番上座に座るふくよかな女中頭、その隣に二人の古参らしき女中、そして末席に、三人ほどの若い女中たちが身を寄せ合っている。
憔悴しきった当主、佐伯は自室に下がらせてある。
「霧祓探偵事務所の霧祓蓮月と申します。改めて今朝亡くなられた執事殿についてお伺いします」
蓮月が切り出す。
空気が張り詰めた。
「彼はどなたかに恨みを買うようなことはありませんでしたか。あるいは最近、何かに怯えていた様子は?」
蓮月の透き通るような声が静かな食堂に響く。
だが、返ってきたのは重い沈黙だけだった。
女中頭が絞り出すような声で口を開く。
「……いいえ。あの方は佐伯家に長年仕えた立派な執事でございました。恨まれるなど……」
「そう、ですわ。私どもには何も……」
古参の女中がそれに続く。
祐市は腕を組みその様子を静かに観察していた。
彼は蓮月にだけ聞こえるようそっと耳打ちした。
「蓮月。女中頭と、あの古参の二人。酷く怯えている」
「分かっています。兄さん」
蓮月は小さく頷く。
彼女の冷静な思考がこれまでの情報を一本の線に束ねていく。
(先ほど私たちが感じた濃密な怨嗟の気配。
その源はあの仏間。
そして犯人は警官を吹き飛ばした黒いもや、すなわち怪異。
まず、怪異は仏間に潜んでいる。
そして千葉刑事は言っていた。
あの仏間は1年前に奥様が亡くなられて以来、ずっと鍵がかかったままだと。
怪異の発生源と奥方の死。
二つの事実はここで結びつく。
怪異の正体は亡くなった奥方である可能性が高い。
そして今、この人たちの怯え方。
執事が殺されたことへの悲しみではなく、別の何かに対する恐怖心。
彼女たちが隠しているのは怪異の正体そのものではなく怪異が生まれた原因?)
蓮月の視線が末席に座る若い女中たちの一人、お梅 を捉える。
(あの子だけが違う。 怯えながらもその瞳は女中頭たちを鋭く貫いている)
蓮月の視線がお梅に固定される。
「あなた」
蓮月が唐突にお梅を指名した。
びくりとお梅の肩が跳ねる。
「あなたは何か、ご存じなのでは?」
「わ、私……私は……」
お梅が狼狽し女中頭の方をちらりと見る。
その視線を受けた女中頭が慌てて口を挟んだ。
「こ、この娘はまだ新入りでして……」
蓮月は席を立ち、ゆっくりと使用人たちのテーブルへと歩み寄る。
彼女の視線は、動揺する女中頭と古参の女中たちを射抜いていた。
このまま話し合っていても有益な情報は得られないと蓮月は考えた。
(証拠はない。確たる証拠は何一つ)
蓮月の思考が高速で回転する。
(あるのは怪異の源が仏間らしいこと。その仏間が奥方の死に関係していること。そしてこの人たちが何かに怯えていることだけ)
(でも試す価値はある。お梅の反応、女中頭たちの動揺、ここではったりを仕掛ける!)
「あなた方が隠しているのはこの屋敷の亡くなられた奥方のことでしょう?」
その言葉が放たれた瞬間、食堂の温度が数度下がったかのように錯覚した。
女中頭が「ひっ」と息を呑む。
その反応から、蓮月の仕掛けた「はったり」が見事に正鵠を射ていたことは明らかだった。
(やはりそういうことか、つまり……)
蓮月が次の言葉を発するより早く、緊張の糸が切れたお梅が堰を切ったように叫んだ。
「……そうです! あれは、いじめなんてものじゃありません! 虐待、迫害です!」
お梅は泣きながら立ち上がり震える指で女中頭たちを指差した。
「あの人たちが奥様を殺した! 罰が当たったんだ!」
元は使用人であった奥方、佐知子。
当主に見初められ懐妊した彼女を古参の女中たちは妬み、虐げた。
薬を食事に盛り続け、階段に米ぬかを撒き、彼女が転げ落ちるように仕向けた。
結果、奥方は流産。
逃げ場もなく終わりのない迫害と我が子を失った絶望の末、あの仏間で首を吊った。
執事もまた、その陰湿な「殺人」を見て見ぬふりをした共犯者の一人だった。
呪詛のような、お梅の叫びが響く。
古参の女中たちは青ざめ、反論すらできない。
蓮月達はその凄惨な過去の詳細までは知らない。
だが、お梅の叫びと女中頭たちの反応だけで、真相を掴むには十分だった。
(なるほど。奥方の怪異は使用人たちへの復讐を……)
彼女は泣き崩れるお梅に近づくと、静かに見下ろした。
「執事もその迫害に加担、あるいは見て見ぬふりをしたのですね」
女中頭は、がくがくと震えることしかできない。
これで怪異の動機は判明した。
だが、祐市は蓮月の隣に立ち警戒を解かずに周囲を見渡しながら泣きじゃくるお梅を一瞥した。
蓮月も同じことを感じていた。
(何かがおかしい)
お梅の告発は真実だろう。
だが彼女の瞳。
それはただ悲しみに暮れ、正義感から告発した者の目ではなかった。
恐怖と憎悪の奥にほんの一瞬、ギラリとした「別の感情」が浮かんだのを蓮月は見逃さなかった。




