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大正八年、冬。
あの地獄のような村を覆っていた赤い霧と耳を劈いた狂った梵鐘の音はもうどこにもない。
帝都、霧祓邸の応接室は穏やかな静寂に満ちていた。
暖炉にはオレンジ色の火が揺れ柔らかい冬の午後の日差しが埃一つない分厚い絨毯を照らしている。
カビと死臭に満ちたあの蔵とは正反対の清潔で暖かく絶対的に安全な場所。
蓮月はまだ五歳になったばかりだった。
衰弱からは回復し真新しい着物を着せられている。
だが心の傷はまだ癒えていない。
物音や部屋に入ってくる大人の気配がするたびに小さな肩をひっと震わせた。
彼女は祐市の背中に隠れその服の裾を小さな両手で固く握りしめている。
祐市もまたあの事件を経て少し大人びた表情を見せていた。
蓮月を安心させるように彼女の半歩前に座っていた。
少し離れたソファでは宗顕が新聞を広げている。
あの戦いで負った肩にはまだ真新しい包帯が巻かれていた。
彼は新聞を読みながらもその視線は紙面の上から穏やかに二人の子供たちを見守っている。
そこにいるのは禍ノ御子と対峙した霧祓家当主の顔ではなく一人の父親の顔だった。
やがて使用人が静かな足取りで盆を運んできた。
「失礼いたします」
盆の上には湯気の立つ温かい砂糖入りの牛乳と黄金色のカステラが乗っている。
その声と足音に蓮月は再び息をのみ祐市の背中に完全に隠れてしまった。
宗顕は使用人に目配せして静かに下がらせると優しい声で促した。
「祐市」
「はい」
祐市は頷くとまず自分がカステラを一切れわざとらしく一口食べてみせる。
「……甘い、よ」
ぶっきらぼうな口調だがそれは彼なりの精一杯の優しさだった。
祐市は皿の上で一番大きなカステラを取ると怯える蓮月の前に差し出すのではなくその小さな手のひらにそっと直接乗せてやった。
蓮月は祐市の顔と手のひらに乗せられた温かい感触を数秒見比べた。
おそるおそるカステラを小さな口でかじる。
その瞬間、彼女の目から恐怖ではない涙が、ぽろりと一粒こぼれ落ちた。
安堵の涙だった。
「あ……」
祐市はそれを見て一瞬どうしていいか分からず、自らの服の袖で、彼女の涙を拭ってやった。
蓮月は涙を拭かれながらもカステラの甘さがよほど嬉しかったのか夢中になって二口目を頬張る。
その姿は冬ごもりの準備をする小さなリスのようだった。
暖かな日差しの中小さなカステラを夢中で頬張る蓮月とそれを見てようやく少しだけ口元を緩める祐市。
宗顕はその光景を静かに微笑んで見つめていた。
この時からはづきは霧祓蓮月となり祐市の妹としてこの家で育てられることになる。
こうして霧祓家に新しい家族が加わった。
霧祓邸の書斎。
暖炉に穏やかな火が入り重厚な机の上には万年筆の走る音だけが響いていた。
霧祓宗顕は警視庁怪異対策課へ提出する正式な報告書の最終確認を行っていた。
その視線の先暖炉の前の分厚い絨毯の上では、祐市が蓮月に絵本を読んでやっている。
まだ言葉は少ないが蓮月は祐市の隣にぴったりと座り込みその袖を小さな手で握りしめながら物珍しそうに絵本の挿絵を見つめていた。
あの蔵で恐怖に凍りついていた少女の面影は薄れつつある。
宗顕はその光景から報告書へと視線を戻す。
【極秘】
事案名: 「丹霧村」禁忌儀式暴走事件
報告日: 大正八年某月某日
提出先: 警視庁怪異対策課
報告者: 霧祓家当主 霧祓 宗顕
1. 依頼概要と真相
表向きの依頼: 村の秘祭の不備による穢れの浄化。
村の真相: 当該集落は土地神の力を利用し不完全な死者蘇生(屍人化)の禁忌を長年行っていた 。
当主召喚の真意: 村長たちは当方の強大な霊力を儀式の燃料とし不安定な制御装置を必要としない完全な不死者への儀式進化を目論んでいた。
2. 儀式の構造
屍人: 蘇生した者は魂が歪んでおり本質的には屍人であった 。
核(生贄): 屍人たちが理性を保てていたのは核と呼ばれる生贄の少女が彼らの理性を保つ鎮静剤、濾過器として機能していたためである。
秘祭の目的: 年に一度村に蓄積した穢れ(死者蘇生の代償)のすべてを核に移し替え、その穢れで満たされた生贄を神に捕食させることで儀式の契約を更新していた。
3. 事件経緯と崩壊
当方の息子、霧祓祐市が儀式の核を幽閉されていた蔵から解放した。
結果①(警報): 鎮静剤を失った屍人たちが一斉に理性を失い暴走。村の狂った梵鐘はおそらくその崩壊を告げる警報であった。
結果②(異界化): 濾過器を失ったことで許容量を超えた穢れが赤い霧として具現化。
村は現世との繋がりを切断され完全に異界として閉鎖された。
4. 結末:禍ノ御子の顕現と討伐
儀式は制御を失い神は村に残っていた全ての穢れ(赤い霧)、屍人、そして村人たちを無差別に喰らい、それらを新たな核として凝縮、顕現した。
この儀式の失敗作こそが怪異「禍ノ御子」である。
当方が禍ノ御子を討伐。
これにより村は赤い霧ごと消滅した。
5. 事後処理
旧儀式の核であった少女を一名を保護。
対象は霧祓家が責任を持ち、監視・保護下に置く。
【報告終了】
宗顕は万年筆を置くと大きく伸びをした。
「よし、仕事終わり!」
禍ノ御子を単独で討伐した霧祓家当主の顔は消え完全に一人の父親の顔に戻っている。
彼は重厚な椅子から立ち上がると満面の笑みで暖炉の前の蓮月に両手を広げた。
「は~ちゃ~ん、ぱぱとあそぼっか?」
先ほどまでの威厳はどこへやら完全に気の抜けた甘い声である。
その瞬間蓮月はビクッと体を震わせると絵本を放り出し全速力で祐市の背中に隠れた。
そして祐市の服を固く握りしめ怯えた目でぱぱから身を守っている。
「…………」
宗顕は両手を広げたままの格好で固まった。 最強の祓魔師であり異界を鎮めた当主である彼はたった今、五歳の少女に全力で拒絶された。
「……父上」
祐市が困ったような少しだけ得意げなような顔で父を見上げる。
宗顕は肩をがっくりと落とす。
その背中は禍ノ御子に傷つけられた時よりも深く傷ついているように見えた。




