3-6
祐市は泥だらけのまま朽ちた祠へとたどり着いた。
狂った梵鐘の音が鳴り響く中、彼が目にしたのは地獄だった。
祠の中心、贄の祭壇には蓮月が縛り付けられている。
村長がその前で必死に呪文を唱え暴走した儀式を無理やり元に戻そうとしていた。
祐市は護り刀を握りしめ祠の物陰から祭壇へと突入した。
「クソガキ! 邪魔をするなぁ!」
村長が叫び護衛の村人たちが祐市に襲いかかる。
祐市は応戦するがすぐに体を押さえつけられた。
万事休すの瞬間。
「そこまでだ」
屍人の大群を強引に突破した宗顕が息子の隣に降り立った。
宗顕は祐市が絶望せず一人でここまでたどり着いたことを見て、一瞬の驚きと息子への誇りの表情を浮かべた。
「祐市」
「父上!」
「よくやった。……あとは任せろ」
宗顕が禁忌の元凶である村長と対峙する。
その隙に祐市は蓮月を縛る祭壇の縄に駆け寄った。
祐市が護り刀で縄を切り蓮月を解放する。
その瞬間、儀式の核が完全に失われた。
ゴオォォン!
狂った梵鐘の音が頂点に達し甲高い金属音を立てて砕け散った。
だが儀式は止まらなかった。
制御を失った赤い霧、祠に集まっていた全ての屍人、そして村人たちの狂気が、解放された祭壇に向かって凄まじい渦を巻いて吸い込まれていく。
「あ……あ……力が集まっ……!」
村長が自らも吸い込まれながら絶叫した。
祭壇が砕け散ったその瞬間。
世界が静止した。
音が消えた。
風が止まった。
時間そのものが凍りついたかのような絶対的な静寂。
祐市の心臓が一度大きく跳ねた。
何かが来る。
本能が全身の細胞が逃げろと叫んでいた。
そして祭壇の中心からそれは這い出てきた。
最初に見えたのは腕だった。
人間のものではない。
白く、細く、関節が逆に曲がった異形の腕。 それが地面を掴みゆっくりと体を引きずり出していく。
次に顔が現れた。
祐市は息を呑んだ。
人の顔の形をしているが表情がない。
能面のように無表情でだが同時に無限の苦悩を湛えている。
その頭部からは無数の黒髪が天を這うように逆立ち赤い霧を纏っている。
そしてその背には折れた翼。
祭壇が砕け散りそこから禁忌の儀式の失敗作、おぞましくも神々しい巨大な怪異、堕ちた神、禍ノ御子が顕現した。
「アアアアアア!」
それはもはや神とも怪異とも呼べない冒涜的な何かだった。
吸い込まれた屍人や村人たちの苦悶に歪む無数の顔、顔、顔。
それらが巨大な肉塊の表面に浮かび上がり無数の腕がそこから生え蠢いている。
禍ノ御子が放つ霊的な咆哮だけで祐市と蓮月は圧倒的な死のプレッシャーに動けなくなる。
顕現しただけで空が赤黒い瘴気に覆われていく。
地面が腐り空間そのものが悲鳴を上げて歪み始めている。
屍人とは比べ物にならない絶対的な存在。
(次元が違う……)
本能的な死の恐怖が走る。
(だめだ……。あんなもの、父上でも……!)
祐市は途方もない絶望を感じた。
(死ぬ)
確信だった。
これは勝てない、逃げられない、ここで終わる。
たった七歳の少年が生まれて初めて絶対的な死を目の当たりにした。
禍ノ御子が腕を伸ばす。
それはゆっくりとした動きだったが祐市には避けることも動くこともできなかった。
白い指先が祐市の頭に触れようとしたその瞬間。
「させるか」
祐市と禍ノ御子の間に宗顕が割って入った。
父の背中が祐市の視界を塞ぐ。
その背中からは先ほどまでとは比べ物にならない霊力が溢れ出している。
振り返った宗顕の表情は先ほどまでの父の顔が消え、冷静な霧祓家の当主の顔になっていた。
「祐市。よくやった。お前はあの子を守り、儀式を止めた」
「……ここからは私の仕事だ」
宗顕が刀を抜き放つ。
村人たちが燃料にしようとした桁違いの霊力が宗顕から放たれ怪異のおぞましい瘴気と激しく衝突し火花を散らす。
「ギ、アアアアア!」
禍ノ御子が宗顕という異物を認識し肉塊から無数の屍人の腕を津波のように繰り出す。
同時に瘴気の塊が砲弾のように宗顕に撃ち込まれる。
それは祐市が七年間で見たこともない地獄そのものだった。
だが宗顕は動じない。
「無駄だ」
宗顕は迫り来る無数の腕を最小限の動きでいなす。
人ならざる速度で懐に飛び込むがそれは直線的な突撃ではない。
瘴気の砲弾を刀の一振りで切り裂き、迫る腕の群れを踏み込みと同時に放った斬撃でまとめて両断し、その全てを読み切ったかのように怪異のただ中へと進んでいく。
祐市の目には父がまるで時間の流れから外れたかのように見えた。
禍ノ御子が戸惑いの声を上げる。
全ての攻撃が当たらず全て迎撃される。
だが、その瞬間切断されたはずの腕が赤い霧となって再生していく。
「なっ……!」
禍ノ御子はこの異界そのものと一体化している。
異界が消滅しない限り何度でも再生する。
「厄介だな……」
宗顕が呟いたその時禍ノ御子の攻撃が再び襲いかかった。
今度は腕だけではない。
背から伸びた折れた翼が鋭い刃となって宗顕を串刺しにしようとする。
宗顕はそれを刀で受け止めるが凄まじい衝撃に後退を余儀なくされた。
「ぐっ……!」
宗顕の足が地面に深く食い込む。
禍ノ御子は止まらない。
腕、翼、髪、すべてが武器となって宗顕に襲いかかる。
宗顕はそれらを斬り払い、躱し、受け流す。
だが。
「父上!」
祐市が悲鳴を上げた。
宗顕の肩から血が流れている。
躱しきれなかった一撃が、父の体を切り裂いたのだ。
その額には冷や汗が浮かんでいる。
(父上が……押されている……?)
祐市は信じられなかった。
父は最強だと信じていた。
父はどんな怪異も一瞬で祓うものだと思っていた。
だが目の前の現実は違う。
父は、傷つき、苦しみ、必死に戦っている。
(このままじゃ、父上が……)
恐怖が祐市を再び支配しようとした。
その時だった。
宗顕が動きを止めた。
禍ノ御子の前で刀を下段に構えたまま動かない。
「父上!?」
祐市が叫ぶ。
だが宗顕は答えない。
ただ目を閉じて何かに集中している。
禍ノ御子がその隙を逃さず襲いかかった。
祐市の絶叫。
禍ノ御子の腕が宗顕の胸を貫こうとしたその瞬間。
宗顕が目を開いた。
「視えた」
その声は静かだった。
宗顕の刀が一閃した。
いや一閃ではなかった。
それは無数の斬撃だった。
人間には不可能な速度で宗顕の刀が禍ノ御子の全身を切り刻んでいく。
腕、翼、髪、そして。
胸の中心。
そこにあった、怪異の核。
そして宗顕はついにその巨大な肉塊の核、ひときわ大きく歪んだ苦悶の顔の目の前に到達していた。
「……祓う」
それは苦戦ではなかった。
ただ圧倒的な格の違い。
祐市の目には父が刀を振り上げたことしか認識できなかった。
音が消える。
空間の歪みが止まる。
宗顕はすでに禍ノ御子の背後に着地し静かに刀を振るい血振りの動作に入っていた。
一拍。
禍ノ御子の巨大な肉塊に一筋の光が走る。
核をただの一閃のもとに正確に切り裂いていたのだ。
「ギ……ア……アア……」
断末魔と共に吸い込まれた村人たちの怨嗟の声が響き渡る。
だがそれもすぐに鎮魂の光へと変わり禍ノ御子は赤い霧もろとも光の粒子となって消滅していく。
狂った梵鐘の音は完全に止み異界が崩壊し今度こそ本物の夜明けの光が差し込んだ。
宗顕は圧倒的な力を見せた後静かに刀を納めた。
その背に差す光があまりに遠く、人ならぬものに見えた。
その光が祐市の瞳に焼き付いた。
宗顕は呆然とする祐市と気を失った蓮月を両脇にそっと抱きかかえる。
その顔はいつもの父の顔に戻っていた。
彼は崩壊する祠から二人の子供を連れて歩き出した。
朝日が三人の背中を照らしていた。




