3-5
祐市は泥の中に倒れたまま動けなかった。
叩きつけられた頬に冷たい泥が張り付く。
口の中に土の味が広がり吐き気がした。
(痛い……)
視界は赤い霧に覆われ耳には狂った梵鐘の不協和音が鳴り響き頭が割れそうだった。
「ゆういち、 助けて!」
蓮月の最後の悲鳴が遠ざかっていく。
村人らに打ち捨てられた泥の中の小さく無力な子供。
それが武器も守るべき人も希望もすべて失った祐市の姿だった。
父の言いつけを破り一人で勝手に行動した。
結果、あの子を救うどころかもっと酷い目に遭わせてしまった。
(……守れなかった)
(父上も助けには来なかった。生きているかも分からない。もしかしたらもう……)
(怖い。痛い。悔しい。独りだ)
祐市の許容量を遥かに超えた絶望がついに堰を切った。
「う……う、ああ……」
祐市は泥の中に顔を埋めたまま声を殺そうとするが抑えきれない。
肩が震え喉の奥から嗚咽が漏れる。
「うわああああああ!」
理性を失いただ泣きじゃくった。
七歳の子供がたった一人で絶望に打ちのめされて泣いていた。
誰も助けてくれない。
誰も来ない。
父も、母も、祖父も、誰も。
どれくらいそうしていただろうか。
激しい号泣はやがてエネルギーを失いか細い嗚咽に変わる。
「……っく……う……」
そしてそれも途切れた。
祐市はただ泥の中に横たわる。
もう涙も出ない。
叩きつけられた体の痛みも泥の冷たさも遠い感覚になっている。
頭も働かない。
恐怖も絶望もすべてが燃え尽きて何も感じなかった。
狂った梵鐘の音だけが意味のない背景音として耳を叩き続けている。
(もう、だめだ……)
諦めが祐市を包み込む。
それは温かかった。
諦めれば楽になれる。
もう何も考えなくていい。
もう何とも戦わなくていい。
ここで目を閉じればすべてが終わる。
(父上も、死んだ……)
(僕も、ここで……)
彼が本当の意味で諦観と無に支配された瞬間だった。
そのすべてが無になった祐市の脳裏に不意にフラッシュバックが差し込んだ。
恐怖に凍りついた小さな少女の瞳。
藁の上で膝を抱えて震えていた、ボロボロの着物の少女。
そして。
「ゆういち、助けて!」
彼女の悲痛な叫び。
自分の名前を呼んだ、あの声。
祐市の胸に、何かが引っかかった。
(僕を、信じてくれた)
蔵から出た時あの子は怖がっていた。
当然だ。
村人たちに裏切られ続けてきたのだから。
それでも祐市の手を握った。
祐市を信じてついてきてくれた。
(なのに、僕は……)
祐市から溢れ出たものは理性的な正義感などではなかった。
「核が戻るぞ!」
「これで村は救われる!」
村人たちの狂喜に歪んだ顔。
蓮月の尊厳を踏みにじり自分たちの利益のためにあの子を贄にしようとするあの大人たち、そいつらに湧いてきた純粋な怒り。
(許せない)
胸の奥底で何かが熱を帯びた。
それは小さな、とても小さな怒りの火種だった。
(あいつらが、許せない)
無力感に支配されていた心が炎で満たされていく。
(あんな奴らに、渡してたまるか)
祐市の胸の奥で何かが弾けた。
その瞬間、遠くの梵鐘がひときわ強く鳴った。
ゴォォン。
まるで世界が祐市の怒りに呼応したかのようだった。
怒りが、絶望を焼き尽くしていく。
(あの子は僕を信じてついてきてくれた。最後まで僕だけを頼りにしていた)
(なのに、僕は何もかも諦めようとした……)
燃え尽きたはずの心の底に怒りの業火が爆ぜた。
息が詰まる。
心臓が激しく脈打つ。
血が逆流するような感覚。
全身に力が戻ってくる。
その時、父の言葉が雷鳴のように蘇った。
『いいか祐市。霧祓の仕事で一番大切なのは、相手に「助かろうとする意志」があるかどうかだ。その意志がある限り、我々には力が湧いてくる』
『助けて』
あの子は助かりたいと思っている。
あの子には助かろうとする意志が、生きようとする意志が、生きたいという願望がある。
(そうだ……力が湧いてくる……)
祐市の指先が震えた。
それは恐怖の震えではなく怒りと決意の震えだった。
泥の底から立ち上がろうとした瞬間、祐市の胸の奥に温かい光がともる。
それは父が自分のために託した護符が微かに震えていた。
霧祓の血が再び目覚める。
(父上……)
祐市は泥の中で目を見開いた。
(僕はあの子を助けたい……そして、あいつらが許せない)
視界の端に先ほど弾き飛ばされた護り刀が泥の中に埋まっているのが見えた。
祐市はそれに向かって這いずる。
膝が痛い。
肘が痛い。
全身が痛い。
でも動ける。
祐市は刀の柄を掴んだ。
泥水と血に濡れた手でそれを強く、強く握りしめる。
(勝てるかどうかなんて、どうでもいい)
祐市は泥の中に手をつき、震える体で起き上がろうとする。
膝が笑う。
腕が震える。
(立ち上がれ……)
祐市は自分に命じた。
少年の体がゆっくりと泥の底から起き上がる。
(父が来なくてもいい)
泥が涙と共に顔から滴り落ちる。
祐市はボロボロの姿でそれでも確かに立ち上がった。
少年の瞳が赤い霧の奥を睨みつける。
そこには諦めも絶望もない。
ただ、燃えるような怒りと、守るという決意だけがあった。
(でも、あの子だけは)
祐市は護り刀を構え直した。
(絶対に、助ける)
祐市は祠に向かって泥を蹴散らし再び走り出した。
小さな背中が赤い霧の中に消えていく。
狂った梵鐘の音が鳴り響く村でたった一人の少年が、たった一人の少女を救うために戦いに向かった。
それが、霧祓祐市という祓魔師の最初の戦いだった。




