3-2
重い襖をそろりと滑らせ広間から抜け出した。
村長の屋敷は祐市が想像していたよりも遥かに広くそして入り組んでいた 。
薄暗い廊下は迷路のように続きどの角を曲がっても似たような障子と板張りの壁が続くだけだった。
(……おかしいな)
祐市 はある廊下の前で立ち止まった。
その先は屋敷の奥へと続いているようだが空気が淀み無意識にこの先は行き止まりだと感じさせるような不気味な圧があった。
これこそが村が張った結界だった。
普通の人間であればここで無意識に引き返してしまう。
だが祐市は霧祓の強力な血筋の影響かこの程度の術は彼には効かない 。
祐市は結界の存在に気づくこともなくなんだか変な感じだと首を傾げただけでその見えない壁を平然とすり抜けてしまった。
彼を止める術はそこには無かった。
結界の先は明らかに屋敷の裏手だった。
ひんやりとした土間を抜け勝手口の扉を開けるとそこは霧に包まれた小さな中庭になっていた。 そしてその中央に異様な存在感を放つ蔵がぽつんと建っていた。
祐市は息を呑んだ。
古びているが扉には真新しい厳重な錠前がいくつもかけられている 。
そして何より見張りが一人もいない 。
本来なら村長たちが直々に厳重に監視しているはずのその場所は彼らが宗顕を儀式場へ案内するという最優先任務のため奇跡的に無防備となっていた 。
祐市 は本能的に入ってはいけない場所だと直感した。
父の顔が脳裏をよぎり引き返そうと踵を返した。
カタン。
その瞬間蔵の中から微かな物音 がした。
祐市は凍りついた。
風の音ではない。
今、確かに、中から。
彼は吸い寄せられるように蔵 の扉に駆け寄り、その古びた板に耳を当てた。
しん、と静まり返った中庭に祐市の心臓の音だけが響く。
そして、聞いた。
「……ひっ」
か細い恐怖に引きつった息遣い 。
誰かいる。
祐市は錠前の横にある古い板壁の隙間に夢中で片目を押し当てた 。
暗闇だった。
埃とカビの匂いが隙間風と共に鼻を突く。
目が暗闇に慣れたその時。
いた。
蔵の一番奥、藁の上で自分とそう変わらない、いやもっと小さな女の子が膝を抱えて座っていた。
ボロボロの着物を着たその少女は祐市の視線に気づき自らの口を両手で必死に塞いでいた。
恐怖に見開かれた大きな瞳。
その瞳と祐市の目が板壁の隙間越しに確かに合ってしまった 。
祐市は息を呑んだ。
父が簡単な調査だと言っていたこの村が子供を幽閉しているという最悪の現場を偶然にも発見してしまった 。
もう広間でおとなしく待っていることなどできるはずがなかった。
時間が止まった。
蔵の暗闇の奥、板壁の隙間越しに見えた瞳。
その瞳もまた祐市を捉えている。
五歳ほどの少女。
埃と薄闇にまみれボロボロになった着物をまとっている。
少女は声も出せずただ見開かれた瞳を恐怖に凍りつかせたまま祐市の姿に釘付けになっていた。
祐市の背筋を本能的な冷気が走る。
宗顕の言葉が脳裏で鳴り響いた。
『絶対に一人で勝手に行動するな』
『結界から出るな』
『これは簡単な調査だ』
(簡単な調査……)
祐市の思考が高速で回転する。
これが簡単な調査であるはずがない。
父が安全だと判断した屋敷、結界が施された蔵の中に子供が監禁されている。
あの異様な錠前。
怯え切った少女の瞳。
彼女がこの村の何か恐ろしいもののまさに中心にいる存在だと祐市は直感した。
(今すぐ広間に戻らないと。父上に知られたらただじゃ済まない)
子供としての恐怖が祐市に撤退を命じる。
だがその思考は一瞬で別の感情によって塗り潰された。
道中、父が語った言葉が蘇る。
『相手に「助かろうとする意志」があるかどうかだ』
祐市は再び板壁の隙間から少女の瞳を覗き込んだ。
あの子に「助かろうとする意志」はあるのか?
いや違う。
恐怖に支配され生きる気力すら奪われたようなあの瞳を見て祐市は悟った。
これは助ける、助けないの選択ではない。
(こんなのどんな理由があろうと間違ってる)
祐市は父に報告しに戻るという選択肢を頭の中から完全に消去した。
(父上は今村長たちと儀式場へ向かっていて、多分油断している。
この村は嘘をついている。
父上の帰りを待っていたらこの子は……)
祐市は父の言いつけを破りこの村の禁忌にたった一人で介入することを決意した。
彼は蔵の扉にかけられた錆びついた巨大な錠前に手をかける。
物理的な絶対的な拒絶。
(どうやってこれを壊す?)
それは霧祓祐市が初めて自らの意志で戦いを選んだ瞬間だった。
錆びついた巨大な錠前は七歳の腕力ではびくともしない。
(ダメだ硬い開かない)
焦って錠前をガチャガチャと揺らすと蔵の暗闇の奥から怯えきった微かな息遣いが聞こえた。
祐市ははっと息を呑み冷静さを取り戻す。
これはただの錠前ではない。
父から教わった通り霊的な視点で観察する。
見えた。
錠前そのものではない。
錠前を掛けている閂の部分に一枚の古い呪符が貼り付けられている。
祐市の目にはその呪符こそが蔵の扉全体に張り巡らされた結界の核として機能していることが視えていた。
(これだこれを剥がせば……!)
祐市は懐から宗顕に護身用として持たされていた小さな護り刀を抜き放つ。
彼は教わったばかりの所作で霊的な繋がりを切断するように刀の切っ先で呪符を切り裂いた。
その瞬間。
屋敷から離れた儀式場で村長の説明を聞いていた霧祓宗顕は鋭い霊力の乱れを感知し屋敷の方角を鋭く振り返った。
「この霊力の乱れは屋敷の方角、まさか祐市か?!」
宗顕の隣でいかにも人の良さそうな笑みを浮かべていた村長の顔が 一瞬だけ歪んだ。
「おおこれは失礼。急用を思い出しましたわい。宗顕殿申し訳ないが屋敷でお待ちを」
村長はそう取り繕うと宗顕の返事も待たず他の村人たちと共に屋敷へ向かって全力で走り出した。
宗顕は村長たちの隠しきれない殺気を敏感に感じ取った。
(祐市が何か、しでかしてしまったのか?)
宗顕もまた息子が重大なトラブルに巻き込まれたことを確信し村人たちの殺気を追うようにして急いで後を追った。
一方蔵の前。
祐市に切り裂かれた呪符は霊的な力を失い乾いた音を立ててパラリと剥がれ落ちた。
それと同時に蔵の扉がギィと重い音を立てひとりでに数センチ開く。
結界の力で無理やり閉じていた扉が反動で開いたのだ。
祐市は即座にその隙間に手をかけ渾身の力で重い引き戸を横にスライドさせた。
埃っぽいカビ臭い空気が流れ出す。
暗闇の奥、隅で蓮月が膝を抱えて震えていた。
祐市は蔵の暗闇に一歩踏み込む。
「大丈夫。助けに来た」
それは七歳の子供の声だった。
少女はてっきり自分を「迎え」に来た、村の大人だと思い込んでいたため驚いて顔を上げる。
目の前に立っていたのは自分とさほど年の変わらない見知らぬ少年だった。
祐市は恐怖で動けない少女の前に進み出ると 無言でそっと手を差し出した。
彼女は差し出された手を目の前の少年の顔を 交互に見る。
その時。
屋敷の玄関の方から複数の荒々しい足音と怒号が急速に近づいてくるのを祐市は敏感に察知した。
「御神体が!急げ!」
(来る!時間がない!)
祐市は少女に向き直る。
「早く!」
強い口調だった。
少女は人生で初めて逃げるという選択肢を与えられた。
彼女は震える手で祐市の手を握り返した。
祐市は少女の手を固く握りしめ蔵とは反対方向 屋敷の裏手へと駆け出した。




