3-1
耳障りな鳥の鳴き声が深い霧の底から響いてくる。
大正8年、帝都の喧騒がまるで嘘であるかのようにその村は外界から隔絶されていた。
三方を険しい山々に囲まれ残る一方もまた鬱蒼とした森に閉ざされている。
朝靄にしてはあまりにも濃すぎる霧が村全体を音もなく支配していた。
霧祓家の当主である父、宗顕と共にこの閉鎖的な山村を訪れた祐市は馬車を降りた瞬間からその異様な空気に肌が粟立つのを感じていた。
「父上。霧が濃いですね」
まだ七歳を少し過ぎたばかりの祐市が隣を歩く父を見上げる。
父は「ああ」と短く応えるだけでその鋭い視線は村の奥、霧の源流を探るかのように固定されていた。
出迎えた村人たちの表情は一様に硬くよそ者である祐市たちに向ける目にはあからさまな警戒心とそれ以上に何かを隠すような鈍い光が宿っていた。
霧の中に不気味なほど人の気配だけが満ちている。
再び甲高い鳥の鳴き声がした。
一行は村長だと名乗る老人に先導され霧の奥へと足を進めていた。
祐市は宗顕の羽織の裾を小さな手で固く握りしめている。
霧が濃いせいだけではない。
空気が重い。
まるで水の中を歩いているかのように湿った邪気が全身にまとわりつく。
そして視線。
先導する村長もその脇を固める男たちも祐市たちを一切振り返らない。
だが道すがら家の軒先や田畑のあぜ道からこちらを無言で見つめる村人たちの視線が粘りつくように肌に突き刺さる。
祐市は父の袖を引いた。
「父上……」
「どうした、祐市」
宗顕は息子のために歩みを緩める。
「この村の人たちなんだか、変です」
祐市は声を潜めて囁いた。
彼らから感じる生の気配が決定的に希薄であり何かが根本から間違っていることを純粋な感覚で本能的に感じ取っていた。
宗顕ももちろんその異様な気配には気づいている。
(……なるほど、村長の言う通りか)
宗顕は内心で頷く。
(秘祭の効力が弱まり村全体が淀みに当てられている。
これでは生者も生きた心地がすまい。
だが所詮は儀式の問題、正せば済む話だ)
彼は祐市を安心させるために軽く笑った。
「ほう。祐市もそう感じるか」
宗顕は祐市の恐怖をほぐすようにその小さな頭にポンと手を置いた。
「だが彼らは我々に助けを求めてきた。それも大事な秘祭の調査を、だ」
彼は息子の目を見つめ教訓としてこう続ける。
「いいか祐市。霧祓の仕事で一番大切なのは、相手に助かろうとする意志があるかどうかだ」
「たすかろうとする、いし?」
「ああ。彼らはこの村の問題を解決するために我々を帝都からわざわざ呼んだ。その意志がある限り、我々には力が湧いてくる」
宗顕は立ち上がり先導する村長に向き直った。
彼は祐市を安心させるように自信に満ちた声で言った。
「さて村長殿。秘祭について詳しくお聞かせ願おうか」
一行は村長の屋敷へと入っていった。
村長の屋敷の広間は陰鬱な気配で満ちていた。
上座に通された宗顕の斜め後ろに座らされながら祐市は息苦しさに耐えていた。
向かいに座る村長と村の幹部たちが重々しく口を開く。
「お分かり頂けますかな霧祓殿。村は今、原因不明の不浄な空気に覆われております」
村長は村で宗顕も祐市も感じた気配を指した。
「我らが土地神を鎮める秘祭が何故か近年上手く行っておらず、村人にも障り、奇病のようなものが出始めているのです。
どうか、貴方様のお力で秘祭のどこに不備があるのか突き止め、儀式を活性化させ、この淀みを祓って頂きたい」
(なるほど。先ほど感じた通り村全体がなんらかの邪気に当てられている。
原因は秘祭の不備か。
これなら儀式場を調査し、祓えば済む話だ。
危険度は低い)
宗顕は屋敷の奥に結界が張られていることに気づいた。
おそらくそれは秘祭の失敗で漏れた気を入れないように張ったただの防御結界だろう。
彼は祐市を後継者教育のために連れてきたが、だからこそ危険の源である儀式場に七歳の息子を同行させるつもりはなかった。
(村長たちの話が真実なら儀式場こそが最も危険な場所だ。それに比べこの屋敷は結界で守られている。ここに残すのが最も合理的だろう)
「承知した」
宗顕は調査のために立ち上がった。
彼は祐市に向き直り厳格な父の顔で言う。
「祐市。私はこれから村長たちと儀式場へ調査に向かう。あそこは穢れの源でありお前を連れて行ける場所ではない」
「はい」
「今回の任務は危険度が低いと判断したからこそお前を連れてきた。後継者としての勉強だ。だが安全な場所で待つことも重要な修行と心得よ」
宗顕はそう言うと祐市の首にかけられた真新しいお守り袋にそっと指で触れた。
(万が一のため私の霊力を込めた護符だ。これで居場所が感知できる)
宗顕は息子にだけ聞こえるよう付け加えた。
「決して、そのお守りを外すなよ」
「はい、父上」
「この屋敷は結界で守られており安全だ。私が戻るまでこの部屋でおとなしくしていなさい。いいな。一人で勝手に行動するんじゃないぞ」
宗顕が村長たちと共に部屋を出て行く。
重い襖が閉まり祐市は広間に一人取り残された。
しんと静まり返った屋敷。
祐市は父の言いつけを守ろうと固く拳を握って正座を続ける。
だが七歳の子供特有の好奇心がじわじわと湧き上がってくる。
(父上は、結界があるから安全だって言ってた)
祐市はそろりと立ち上がった。
(屋敷の中をちょっとだけ探検するくらいなら、大丈夫だよね?)
彼は父の言いつけを破り音を立てないよう広間の襖にそっと手をかけた。




