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霧祓探偵事務所の怪異録  作者: aik
孤独な復讐者

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12/40

2-7

 霧祓家の屋敷は静まり返っていた。

 坑道の血と泥を洗い流し二人は客間に通されていた。

 祐市は学生服ではない清潔な浴衣に着替えている。

 銃弾が掠れた左肩には真新しい包帯が巻かれていた。

 蓮月も同じく清潔な寝間着に着替えていたがまだショックが抜けきらないのか肩から毛布を羽織っている。

 美しく整えられた静かで平和な和室。

 開け放たれた縁側からは眩しいほどの朝日が差し込み手入れされた庭の草木を照らしている。

 使用人が運んできた温かいお茶の湯気が立ち上っていた。

 ほんの前までいたあの遺骨と死臭に満ちた巣とはあまりにもかけ離れた生の空間だった。

 しばらくの間二人は無言だった。

 先に口を開いたのは蓮月だった。

 彼女は震える手で湯呑みを持ち上げようとしたが指がうまく動かず小さな音を立ててそれを畳に戻した。


「……祐市兄さん」


 祐市は庭の朝日に目を向けたまま、静かに答える。


「ん?」

「……怖かったです。とても。私、まだまだですね」


 絞り出すような声だった。

 祐市は視線を庭に固定したまま数秒の間を置いた。


「……いや。俺もだ」


 蓮月は息を呑んだ。

 兄が自分に対して弱さを出すのは珍しい。

 蓮月は戦闘時ではない年相応の少年に戻った兄の横顔を見つめた。


「木島さん。最期に、なんて言っていたんですか?」


 祐市はあの壮絶な戦いの中で聞いた木島の最後の叫びを反芻する。


「お前は俺みたいになるな……!」


 祐市は刀を握り続けた自らの右手のひらをゆっくりと見つめた。


「……『独りになるな』と。そう、言われた気がする」


 木島の悲劇は戦場のトラウマだけではなかった。

 その苦しみを誰にも理解されず「化け物」と拒絶され続けた「孤独」こそが彼を怪異に引き寄せたのだと祐市は理解していた。

 蓮月は祐市の右肩に顔を寄せた。


「兄さんは……独りじゃない」


 蓮月は祐市の右手を自らの両手で包み込むようにそっと握った。


「私がいるから。何があっても、ずっと」


 祐市の祓い手としての力は彼を人から遠ざけ孤立させる危険な力だ。

 だが蓮月はその力の恐ろしさもその手にかかった血の重みもすべて見た上で兄のそばにいることを選んだ。

 それが彼女の決意だ。

 繋がれた手のひらから伝わる自分以外の温かさと蓮月の言葉に祐市は驚いたように一瞬、目を見開いた。

 彼は逃げることなく蓮月の顔をまっすぐに見返す。

 蓮月もその視線から目をそらさなかった。

 祐市はわずかに口元を緩めた。


「蓮月、ありがとう」


 祐市は蓮月の手を今度は力強く握り返した。

 朝の光の中固く繋がれた二人の手。

 地獄から生還し互いの存在を確かめ合うように寄り添う兄と妹。

 無数の死を乗り越え二人が手に入れた生と絆の温かさが夜明けの部屋を静かに満たしていた。


 祐市の自室。


「兄さん……」


 蓮月が恐る恐る手にそっと触れる。

 祐市の体が強張った。


「……はづき……」


 それはうわ言のようにか細い声だった。

 祐市はまるで縋るかのように伸ばされた蓮月の手を掴んだ。

 そして抵抗する間も与えずその体を自らの腕で強く抱き寄せた。

 蓮月は予期せぬ兄の行動とその腕の中に完全に閉じ込められたという事実に一瞬で顔に熱が集まるのを感じた。

 浴衣越しに伝わる鍛えられた胸の厚みと自分を閉じ込める腕の力強さ。

 それは自分が知っている「兄」のものではなく紛れもない「一人の男性」のものだった。

 蓮月はその背中を抱きしめる腕にそっと力を込めた。

 祐市は蓮月の肩口に顔を埋め洗い立ての髪から香る彼女自身の甘い匂いを飢えた獣のように吸い込んだ。


(……俺の、だ)


 この温もりも、この匂いも、この柔らかな感触も。

 祐市はその腕を緩めるどころかわずかに体をずらし彼女を自分の胸により深く抱き直す。

 そして蓮月の耳元に吐息だけがかかるような声で囁いた。


「どこにも、行くな」

「……はい」


 蓮月は顔を上げることもできずただ彼の胸の中で小さく頷いた。

 祐市はその返事に満足したように蓮月の顎にそっと指をかけ顔をわずかに上げさせた。

 逃げられないようにその瞳をまっすぐに見つめる。

 蓮月は祐市のその真剣な眼差しに息を呑み次に何が起こるかを悟った。

 祐市はその震える唇に自らの唇をそっと押し当てた。

 それは誓いであり所有の証でありそして紛れもない渇望だった。

 蓮月は唇に触れた熱に全身が溶けてしまいそうな感覚に襲われた。

 だが、恐怖はなかった。

 むしろその場所が自分の居場所だと確認するようにそっと目を閉じる。

 唇が離れ二人はごく至近距離で見つめ合った。

 祐市は今度こそ本当に安心したように蓮月を再び強く抱きしめその胸に顔を埋めたまま布団に横になり深い眠りへと落ちていった。

 蓮月も赤くなった顔を祐市の胸に隠すようにしてその背中に腕を回した。

 朝日が柱に寄りかかり互いの存在だけを頼りに一つの影となって眠る二人の姿を静かに照らしていた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 蓮月が次に意識を取り戻した時差し込んでいた朝日は既に高い位置に昇り部屋を暖かな光で満たしていた。

 自分が兄の自室で兄の腕に抱かれたまま眠ってしまっていたことに気づき蓮月は一瞬で顔に熱が集まるのを感じた。

 そっと顔を上げると祐市も既に目を覚ましていた。

 その瞳には、昨夜までの極度の緊張や疲労の色はなく、ただ深い慈しみと穏やかな光が宿っていた。


「ぁ……兄さん……おはよう、ございます……」


 蓮月が消え入りそうな声で言う。

 祐市は何も言わずに蓮月の頬に落ちた髪をそっと指先で払った。

 そのあまりにも優しい仕草に蓮月の心臓が高鳴る。


「……ああ。おはよう、蓮月」


 その声はこれまで蓮月が聞いたことのないほど穏やかで甘さを帯びていた。

 祐市は蓮月を抱いていた腕の力を緩めるとその手を握り直す。


「お腹、減ったね」


 それは地獄から生還した二人が初めて共有する日常の言葉だった。

 蓮月はその言葉に昨夜とは違う意味で涙がこみ上げてくるのを感じながら精一杯の笑顔で頷いた。



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