2-5
(……まずい。だがまずは先に木島を仕留める!)
祐市が木島との距離を測り、一瞬、足に力を込めた。
それを見逃す木島ではない。
「動くな!」
乾いた銃声が山に響き渡った。
祐市は銃口が向いた瞬間、蓮月の体を強く突き飛ばしていた。
蓮月が地面に転がる。
祐市は避けたものの銃弾が左肩を掠っていた。
木島がとどめを刺そうと銃口を再び祐市に向けた。
だが木島は気づいていなかった。
自らが犯した致命的な誤算に。
「ギィィィアアアアアッ!!」
銃声が山鬼を刺激した。
山鬼は木島の手駒などではない。
興奮した山鬼は獲物の区別なく木島にその異様に長い腕を振りかざし襲いかかった。
「なっ、来るな!」
木島は狼狽し慌てて猟銃を山鬼に向ける。
怪異と人間が互いに牙を剥きあい牽制し合う。
その一瞬の膠着状態。
「蓮月!」
祐市が蓮月の手を掴む。
「今だ! 坑道の中へ逃げ込む! 外にいれば木島の的だ! 狭い坑道なら跳弾で銃は使いにくいし、あの化け物の動きも制限できる! 行くぞ!」
祐市は蓮月の手を強く引き二人は山鬼の巣である鉱山の深い闇の奥へとあえて飛び込んでいった。
「待て! 逃がすか!」
山鬼の一撃を辛うじて避けた木島が闇に消える二人に向かって怒号を上げ猟銃を乱射する。
弾丸が坑道の入口の岩肌を砕く。
そして山鬼もまた巣に逃げ込んだ獲物を追って甲高い叫び声を上げながらその闇の中へと消えていった。
坑道の闇は月光すら届かぬ完全な無だった。
祐市は右腕で蓮月の手を強く引きただひたすらに走った。
背後から二つの絶望が迫る。
木島の重い軍靴の音と山鬼の岩肌を爪で擦る不快な音。
「そこか!」
木島が足音を頼りに闇雲に引き金を引いた。
轟音。
鼓膜が破れそうなほどの銃声が狭い坑道内で反響し増幅される。
祐市は咄嗟に蓮月の頭を抱えて身を屈めた。
「キィン! ガギン!」
祐市の狙い通り岩盤に当たった散弾が四方八方に跳ね返る。
「うおっ!?」
跳弾のいくつかが木島自身の近くの壁にも当たった。
「クソッ! 」
銃の脅威は消えた。
だがそれは暗闇の捕食者山鬼の独壇場を意味していた。
「ギィィイイイアアア!」
山鬼の甲高い叫び声が木島の真後ろに移動していた。
「がはっ!」
山鬼の異様な腕が木島の脚を掴み彼を引き倒す。
「ひ、来るな! 助け……!」
「兄さん」
蓮月が祐市の手を引きこの隙に逃げ切ろうとする。
祐市の足が一瞬止まった。
(この人は俺をそして蓮月を殺そうとした。……でも俺のなすべきことは怪異を祓い、人を守ること)
「蓮月」
祐市は蓮月を近くの岩陰に強く押し込む。
「そこに隠れて。すぐに戻るよ」
祐市は踵を返し木島に馬乗りになろうとする山鬼の節くれだった腕に一切の迷いなく刀を振り下ろしていた。
「ギィイイイアアアアアッ!!」
怪異は甲高い悲鳴を上げ黒い体液を撒き散らしながら獲物から手を離す。
山鬼は祐市を鋭く威嚇した後傷を警戒するように数歩後退し闇の中へと一時的に姿を消した。
祐市は血まみれの脚を押さえてうめく木島の襟首を掴む。
「死にたくなければ立て」
木島は痛みと恐怖で呆然としながらも祐市に引きずられるようにして立ち上がった。
三人は近くの小さな横穴古い資材置き場だったらしい場所に滑り込み息を潜めた。
山鬼の気配は一時的に遠のいたようだった。
祐市は負傷した脚から血を流し続ける木島を暗闇の中で睨みつけた。
「なぜこんなことをした。あの化け物はお前が仕掛けてきたのか?」
「うるさい。貴様らには関係ないことだ」
木島が苦痛に喘ぎながら悪態をつく。
蓮月が抑えていた感情を表に出した。
「あなたのせいで村の人達が……!」
蓮月の言葉と迫る死の恐怖、そして自らの脚の激痛が木島の張り詰めていた理性の糸を断ち切った。
「俺はただ静かに暮らしたかっただけだ」
絞り出すような声だった。
「分かるか? 毎晩、毎晩だ。耳元で砲弾が炸裂するんだ。 腹の底まで揺さぶるあの音が今も。」
木島は負傷した脚を押さえながら憎悪と恐怖がない交ぜになった顔で喘いだ。
「目を開けても閉じてもあいつらの顔が凍傷で黒く腐って『助けてくれ』『何でお前だけ』とそう言った戦友の顔が」
彼はこの時代ではまだ誰にも理解されない「心の傷」戦争が精神に刻み込んだ消えない地獄を語りだす。
「村に帰ってきたら普通に暮らせると思った。
だが違った。
物音に怯え夜中にあいつらの名前を叫んで飛び起きる。
俺はただ怖かっただけなんだ。
誰でもいいから助けて欲しかった!
夜中に知らねえうちに叫んでる。
そんな俺を村の連中は『気が触れた』『呪われている』『戦地の怨霊を持ち込んだ』と!
誰も、誰も俺を人として見なかった。
汚物を見る目で、石を投げやがった!
俺が通ると子供を隠し、女どもは塩を撒きやがった!」
孤独と迫害。生き残ったことへの罪悪感と、故郷から拒絶された絶望が彼を強く歪ませていった。
「俺を化け物扱いしやがったのはあいつらの方だ! だから、だから俺は、本物の『化け物』の力で、俺を馬鹿にした連中に!」
その歪んだ動機とその根底にある深い孤独に祐市と蓮月は言葉を失った。
「ギィィィアア」
遠くからあの爪の音が聞こえる。
「奴が来る。立てるか」
「……もういい。俺はここに……」
祐市は、木島の腕を無理やり引く。
「木島さん俺達はあなたを死なせはしない。
怪異の正体を暴き、祓いそして人を救う。
俺たちはそのためにここに来ました」
祐市は木島に肩を貸し蓮月を庇いながらさらに奥へ。
やがて通路は終わり天井の高いドーム状の開けた空間に出た。
そこは地獄という言葉すら生ぬるい屠殺場だった。
まず鼻腔を殴りつけたのは肺が拒絶するほどの濃密な死臭。
腐肉、そして得体の知れない獣の臭いが混じり合い思考そのものを麻痺させる。
祐市は蓮月を庇いながら一歩足を踏み入れた。
視界が闇に慣れるにつれその全貌が明らかになる。
視線を床からゆっくりと滑らせていく。
足の踏み場もない。
おびただしい数の遺骨が文字通り山をなし空間を埋め尽くしている。
視線が壁を捉えればそこには黒く乾いた体液がこびりつき獲物を引きずり上げたおぞましい痕跡が無数に染み付いていた。
ここは巣などではない。
怪異の食卓だ。
祐市の目がおぞましい細部を捉えてしまう。
骨は綺麗な白骨ではなかった。
多くが無残に砕かれている。
鋭利な何かで噛み砕かれ髄を啜られた痕跡を生々しく残した食べかすだ。
カビと汚泥にまみれた衣服の切れ端が人の形を失った骨に第二の皮膚のように張り付いていた。
錆びた農具が虚しい抵抗の末にへし折られている。
その死が積み重なった灰色の山の中で。
蓮月の視線がある一点に釘付けになった。
小さな子供の手鞠が骨の隙間から転がり出ている。
その鮮やかな赤色だけがこのおぞましいまでの死の灰色の中で狂ったように鮮明だった。
「あ……」
蓮月がその無数の死の痕跡に息を呑み恐怖と悲しみにその場に立ち尽くす。
「人が、こんな、こんなに……」
木島もまたその惨状、自らの復讐心が招いたおびただしい死の結果を目の当たりにし愕然としていた。
「……俺は……こんな……こんなことをしたかったわけじゃ……ない……」
彼は膝から崩れ落ちた。
その瞬間。
彼らが入ってきた唯一の通路。
その闇の奥からゆっくりとそいつは姿を現した。
祐市に腕を傷つけられさらに凶暴性を増した山鬼が。
怪異は血の匂いに興奮し三人の逃げ道を塞ぐように立ちはだかった。
袋小路。
祐市は万全だが蓮月はショックで動けない。
木島は重傷を負い戦意を喪失している。
絶体絶命の状況で祐市は覚悟を決め刀を握り直した。




