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霧祓探偵事務所の怪異録  作者: aik
白腕の絞殺

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1-1

 大正二十年、初秋。

 帝都郊外の高台に霧祓きりはら邸は建っていた。

 石造りの洋館。

 重厚な壁に尖塔アーチの窓。

 イギリス貴族の邸宅を模した建築は大正浪漫の象徴だった。

 洋館の周囲には手入れの行き届いた日本庭園が広がる。

 石灯籠と池。

 紅葉が色づき始めた楓。

 西洋と東洋が静かに混ざり合っている。

 霧祓邸の朝は紅茶の香りから始まる。

 食卓には既に使用人が用意した朝食が並んでいた。

 炊きたてのご飯。

 焼き魚の香ばしい匂い。

 だが蓮月は使用人を下がらせると自ら紅茶を淹れ始める。

 茶葉の量、湯温、蒸らし時間。

 全てに気を配る。


「おはよう蓮月はづき


 階段を降りてきた祐市ゆういちが穏やかに微笑む。

 詰襟の学生服に身を包んだ十九歳の青年はどこか眠そうに目を擦っていた。


「おはようございます」


 蓮月の声は少し小さい。

 カップを差し出すがどこか不満そうだ。

 祐市は首を傾げる。


「どうしたの?」

「なんでもありません」


 蓮月は顔を背ける。

 祐市が席に着くと蓮月も隣に座る。

 だが、いつもより少し離れている。

 祐市が一口飲む。


「今日もおいしいね」

「ありがとうございます」


 蓮月の頬がほんの少し膨らんでいる。

 拗ねている。

 祐市は苦笑した。


「ねえ、蓮月」

「……何ですか」

「何か俺、悪いことした?」


 蓮月は答えない。

 紅茶のカップを見つめたまま黙っている。

 祐市は蓮月の方へ少し身を寄せた。


「教えてくれないと分からないよ」

「昨夜」


 蓮月の声が小さく響く。


「私が話しかけたのに兄さんはずっと本ばかり読んでいました」


 ああと祐市は思い出す。

 事件の資料に夢中で蓮月の声が耳に入っていなかった。


「ごめん」


 祐市の手が蓮月の頭にそっと触れた。

 蓮月の肩が小さく震える。


「君の話ちゃんと聞いていなかったね」


 祐市は優しく蓮月の髪を撫でる。

 柔らかな髪が指の間をすり抜ける。


「もう、いいです……」


 蓮月は視線を逸らしたままそう言った。


「いや、よくないよ」


 祐市は蓮月の肩をそっと引き寄せた。

 距離が縮まる。

 蓮月がおずおずと祐市を見上げる。


「許してくれるかな?」


 祐市が微笑むと蓮月の頬が赤くなった。


「……条件があります」

「なんでも聞くよ」

「今日、一緒に公園に行ってください」

「そういえば、紅葉の季節だね」


 祐市は蓮月の頭をもう一度優しく撫でた。

 蓮月は祐市の肩にそっと頭を預ける。


「ずるいです、兄さん」


 小さな声。


「何が?」

「すぐに、こうやって……」


 蓮月の手が祐市の袖をぎゅっと掴む。

 祐市は微笑んで蓮月の髪を撫で続ける。

 蓮月は目を閉じて祐市の温もりを感じていた。

 静かな二人だけの朝。

 窓の外では帝都の朝が動き始めていた。

 石畳の通りに朝日が差し込む。

 人力車と路面電車が行き交い、和洋折衷の建物が光を浴びる。

 美しい朝。


 早朝、 旧華族の屋敷は静寂に包まれていた。

 薄暗い廊下を執事が歩く。

 革靴が木の床を叩く音だけが朝の静けさを切り裂く。

 五十代の男性。

 この屋敷に三十年仕えてきた古参の使用人。

 彼の足取りはいつもと変わらない。

 執事の足が止まる。

 冷たい風が頬を撫でる。

 窓は閉まっているのに。

 その瞬間、息が首筋にかかった。

 執事の背筋が凍る。

 背後に誰かいる。

 ゆっくりと振り返る。

 執事の肩越しに人影が見える。

 その姿は揺らいでいる。

 黒い霧のようなものに包まれている。

 人の形をしているが、顔は見えない。

 ただ、何かがそこに立っている。

 その瞬間、人影の周りから白い腕が伸びてきた。

 女性の腕だ。

 その腕は半透明でぼんやりと光っている。

 白い手が執事の首を掴んだ。

 その動きは人間のものではない。

 執事の目が見開かれる。

 白目が一瞬で血走る。

 毛細血管が弾け赤い筋が広がっていく。

 指が皮膚に食い込み、皮膚が変色していく。

 指の跡が紫色になり圧力が増していく。

 気管が潰れる感触。

 グキリと鈍い音。

 喉仏が砕ける。

 肺が空気を求めて痙攣する。

 口が開く、必死に。

 だが空気が入らない。

 喉の奥で何かが破裂する音。

 口から血が滲み出てゆっくりと垂れていく。

 目が充血して真っ赤に染まる。

 涙が流れる、血の混じった涙。

 顔中の毛細血管が破裂し始めている。

 だが黒い霧に包まれた人影は動かない。

 ただそこに立っているだけ。

 白い腕だけが首を締め続ける。


「許さない」


 恨みに満ちた呪いの声。

 それは女の声だ。

 力がさらに強まる。

 ゴキッ、はっきりとした音。

 口から血が溢れ、 鮮血が顎を伝い、首を伝い、服を赤く染める。

 目が飛び出しそうなほど見開かれている。

 眼球が真っ赤に染まっている。

 腕がだらりと垂れ下がり膝ががくりと折れる。

 ドサリ、重い音が廊下に響いた。

 床に血が広がる。

 口から、鼻から、耳から 全ての穴から血が流れ出している。

 顔は紫色に腫れ上がりもはや人の顔には見えない。

 喉には指の痕がくっきりと残っている。

 白い腕が消える。

 黒い霧に包まれた人影は、何事もなかったかのように廊下を歩く。

 足音が遠ざかる。

 廊下に静寂が戻る。

 朝の光が窓から差し込む。

 執事の遺体を残酷なまでに明るく照らす。

 一瞬何かが見えた。

 白い着物を着た女性の姿。

 長い黒髪、 そして怨念に満ちた目。


 

 

 同日午後、霧祓探偵事務所。

 霧祓邸の一角にある小さな事務所だ。

 重厚な木製の机。

 壁一面の書架には古文書や怪異に関する書物が並ぶ。

 窓からは帝都の街並みが見える。

 奥の席には白髪の老人が座っている。

 霧祓探偵事務所の所長、祐市の祖父、源蔵だ。

 六十半ばを過ぎているが背筋は伸び、目は鋭い。

 祐市と蓮月は、いつものように事務所で資料整理をしていた。

 蓮月が古文書を読み、祐市が符を確認する。

 所長は静かに新聞を読んでいる。

 静かな午後。

 だがその静寂は、訪問者のノックによって破られた。


「失礼します」


 扉が開く。

 入ってきたのは三十代の男性。

 黒いスーツに身を包んだ刑事だ。

 祐市は顔を上げた。


「千葉さん、お久しぶりです」


 千葉刑事、警視庁怪異対策課の刑事で霧祓探偵事務所の窓口だ。

 普段は穏やかな男だが今日は表情が硬い


「皆さん。急な依頼なんですが」


 所長が新聞を置き千葉を見る。


「千葉君、どうした。そんな顔をして」

「はい。厄介な事件でして」


 千葉は資料を机に置いた。

 祐市がそれを手に取る。

 蓮月も隣に寄り添い一緒に資料を見る。


「旧華族の屋敷で、変死事件です」

「変死……ですか」


 蓮月が小さく呟く。


「ええ。今朝、執事が廊下で死んでいるのが発見されました」

「死因は?」


 所長が問う。


「窒息死と思われます。喉に強い圧迫痕がありました」


 祐市は資料の写真を見る。

 執事の遺体、顔は紫色に腫れ上がり目は充血している。

 喉にははっきりとした指の痕。


「不可解な点が、いくつか」


 千葉は資料の別のページを開いた。


「まず、指紋です」

「指紋?」

「ないんです」


 祐市が顔を上げる。


「素手で首を絞めたはずなのに、指紋が全く残っていない」

「手袋の痕跡も?」

「繊維などは見つかりませんでした。さらに」


 千葉は続ける。


「喉は潰れ、骨も折れており、穴という穴から血が出ている。人間には不可能な力です」


 所長は腕を組んだ。


「使用人の証言は?」

「はい。複数の使用人が『黒い影が廊下を歩いていた』と」

「顔は?」

「見えなかったそうです。黒いもやのようなものに包まれていて」


 蓮月は資料を見つめる。

 執事の恐怖に歪んだ顔、最期に何を見たのだろう。


「当主の動きは?」


 祐市が尋ねる。


「当主は自室におられたと」

「屋敷には、他に誰が?」

「家族が数名、使用人も何人か。このままでは次の犠牲者が出るかもしれない」


 千葉の声に焦りが滲む。


「我々も当主を保護しようとしましたが……」

「何かあったのですか?」


 蓮月が鋭く問う。


「屋敷の外に連れ出そうとした瞬間、当主の周りに黒いもやが出て、警官が吹き飛ばされました。これは我々の手には負えない」


 所長は祐市を見る。


「祐市、行きなさい」

「はい」

「蓮月も一緒だ」

「はい、所長」

「ではこの依頼、お引き受けします」

「ありがとうございます」


 千葉は深く頭を下げた。


「屋敷の場所は資料に。当主には、霊能者の方が来ると伝えてあります」


 所長は腕を組んだ。


「祐市、蓮月。慎重に行動しなさい。怨念は、時に予想以上に強い」

「分かりました」


 二人は同時に答えた。


「すぐに向かいます」


 祐市が千葉に言う。


「お願いします」


 千葉は一礼して事務所を出て行った。

 扉が閉まり静寂が戻る。

 祐市は立ち上がり符や刀を準備し始める。

 蓮月も自分の道具を確認する。

 所長は二人の背中を見つめる。

 頼もしい孫と、その許嫁。


「蓮月」


 祐市が呼ぶ。

 蓮月が振り返ると祐市が優しく微笑んでいた。


「無理はしないようにね」

「はい。兄さんこそ」


 蓮月は微笑み返す。


「行こう、蓮月」

「はい、兄さん」


 二人は事務所を出た。

 所長は窓から二人の背中を見送る。

 帝都の午後、秋の風が二人の髪を揺らす。

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