18話
「さて、三本手に入れたとはいえ、ほとんど偶然で、自ら探して見つけたわけじゃない。最後の一本、どうするか」
手の中にある三本の鍵を見ながら独り言ちる。セラが扉に『刻』のマークが刻まれていると言うから入っただけで、この部屋に四本揃っていると決まっているわけでもない。
(あれは?)
見たことのない男が二人、光の中に浮いている。一人は深い緑を思わせるような黒髪に、新緑の輝きをした瞳の軍服姿の男だ。詰め襟部分に凝らされた意匠は翼を広げた銀色の鷹のように見える。年は三十前後だろう。整った凛々しい顔立ちであるが、浮かんでいるのは穏やかな笑みだ。
もう一人は濃茶の長い髪をうなじで括っている似た年の男だが、こちらは甘いマスクで空色の瞳が印象的だ。長上着にクラヴァットタイ姿、おそらく文官だろう。
(誰だろう。知らない顔だけど)
フレイリスはもう一度、緑黒の髪の男に視線をやり、じっくりと観察する。
銀色の鷹の意匠は詰め襟だけではなく、手首にあるリストバンドにも施されている。さらに上腕に縫い付けられている紋章を見た瞬間、稲妻に打たれたような衝撃に襲われた。
(二本の剣と銀の鷹。ダケルノス王国の国章だ! では、この二人は銀鷹王と最側近!)
東国の大国ダケルノス王国を統べる銀鷹王ことラディアスシザー・ヴェルダン・ジェイゾン王太子。現在二十八歳の若き支配者は、周囲から銀鷹王と呼ばれているにもかかわらず、即位せず王太子のままだった。そしていまだ妃を娶らず独身である。
その銀鷹王の腹心である最側近の名はヴェルン・ローザス。年は三十歳。ダケルノス王国が誇る王立学院を十五歳で首席卒業した秀才で、天才と謳われているが、本人は宮廷装飾の職人の倅で父の跡を継ぐつもりだったと聞く。才を認められて官職に求められたけれど、自身の希望ではないと断り、無位にて銀鷹王に仕えている。
二人の逸話は多いのだが、なによりもいつ即位するのか、それが周辺国家の最大の関心事だった。そしてその関心事はフレイリスにもあった。銀鷹王のことを考えるとなぜだか全身に震えが起きるのだ。顔も知らないというのに、話を聞くだけでなにかがこみ上げてくる。
(この人が、銀鷹王)
ブルリと体が震える。この人物はフレイリスの中にある葛藤だった。
(あたしには主上しかないはずなのに、銀鷹王のことを聞くと全身が痺れるんだ。なぜだかわからない。でも、会いたいと思ってしまう。この人に、いつかって思って――)
フレイリスはとっさに手で口を押さえた。けっして声は出ていない。それでも言ってはならないと自らを止めた。
これを言っては取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう――
ゾワリと全身が総毛立ち、寒気が起こる。
もし、この王のもとへ行き、膝を折るような真似をしてしまっては、カイオスの斎主を裏切ることになる。カイオスは裏切りを許さない。そしてそれは斎主との距離が近い者ほど重い咎を負う。永劫の忠誠を誓い、斎主の秘匿任務を受けているフレイリスがもしも裏切ったら――
(いや、カイオス自体が怖いわけじゃない。向かうなら戦うし、負けなら死ねばいいだけだ。屍になれば、それはもうあたしじゃないから関係ない。でも、主上は違う。あたしは主上を裏切る自分が信じられないんだ。そんなことはありえない。なのになぜ、こうも自分が揺れるのか。東の大国の王子だというだけで)
全身がジンと痺れる感じ。楽しそうに笑う銀鷹王の顔を凝視しているフレイリスは、ギョッと目を剥いた。銀鷹王がこちらを向き、フレイリスと目が合ったのだ。フレイリスが息を呑む。
――来い、剣士。
「な……」
――ここへ来い。俺のもとへ。これから始める世界の変革にお前も加われ。お前の力はそのために与えられたんだろう? さぁ、フレイリス。
「そんなはずはない」
フレイリスの口から漏れた言葉は、銀鷹王へ向けた言葉ではなく、自らに向けたものだ。
斎主の秘匿任務を受けて旅を続けているとはいえ、行動範囲は広大な大陸の西側だ。はるか遠い東側の国の王がフレイリスのことを知っているはずがない。
だが。
――フレイリス・カティリア。俺はお前を知っているし、お前はここに来たがっている。俺たち本人は魔法などこれっぽっちも使えないというのに、魔導によって結びつけられている。
ゴクリとフレイリスの喉が嚥下する。
「嘘だ」
フレイリスの否定に銀鷹王が笑った。
――嘘ではない。フレイリス・カティリア、迷うことではない。お前は俺のもとに来ることを望んでいる。早く来い、ここへ。俺は待っている。
「黙れ。あたしは主上の僕であり、主上はあたしのすべてだ。あたしはどこにも行かない」
――その主はお前の願望を知っている。
「!」
――命じられた個人のために剣を使うのではなく、人の生きる道のために使いたいと思っていることを。主は心を理解している。そしていつか来る、お前が身許を離れ、一人の人間として生きる身を選ぶことも。
フレイリスは瞼を閉じて首を左右にゆっくりと振った。それから再び銀鷹王を見据える。
「やはり嘘だ。あたしは主上を敬愛している。命尽きるまで主上の御為に生きる。そんな戯言に耳など貸さない!」
――偽るな。今、お前が抱いている焦りこそが事実であり、真実だろう。
その言葉にフレイリスの肩がビクッと跳ねた。額に脂汗が滲む。
――早く来い、剣士フレイリス・カティリア。俺はお前を待っている。会える日を楽しみに――
ひゅんと空気が鳴き、銀鷹王の声が消えた。沈黙が空間を支配する。間もなく、銀鷹王の右の首元から左腰に斜めの線が走り、上半身が滑り落ちる。銀鷹王の体は二つに分かれて床に落ちた。
「もういい。あたしを誘惑しても無駄だ。あたしの忠義は誰にも否定させない」
銀鷹王の姿をした砂の塊が床に散らばっている。彼の近習の姿はなかった。
「胸クソ悪い。あたしを動揺させ、弱点を衝きたかったんだろうが、そんな目くらましにやられるほど純粋じゃないよ。でも、なぜいつも銀鷹王の話に触れると体が痺れるのかわかったことは礼を言う。あたしが王に、王として惹かれているってことだ。確かに主上に知られるわけにはいかないことだね」
フレイリスは身を屈め、砂の中にある四本目の鍵を拾い上げた。金のボディに長方形をしたサファイアが輝いている。フレイリスはその鍵をギュッと握りしめた。
その時!
『フレイリス・カティリア!』
鋭い呼び声が周囲に轟いた。甲高い女の声だ。
『ここです、剣士』
聞いたことのない澄んだ声。フレイリスは声の主を探して二度、三度クルクルと回った。そして闇に慣れた目は、十字になって吊られている魔導士の姿を確認した。
「セラ!」
気を失っているらしく、肢体に力がない。フレイリスはセラの様子を見て不吉なものを感じた。
『剣士』
「あんたは誰だ。どこにいる」
――暗黒の鍵、地獄の門を開く。地獄の果て、迷宮の果てへと飛翔せよ。凍てつく氷姫、冷獄の番人、礎を以て世界に樹氷の輝きを与えよ。
今度は鍵を手に入れた時のような直接鼓膜に響く声に変わる。
「……なんだ、これ?」
突然猛吹雪が起こった。あたりは雪と氷に閉ざされている。声は依然と続く。
――氷原よ、地を覆え、遥かなる寒獄の息吹を呼び覚ませ。我が怒り、呪いとなりて天を貫き、地を砕く。呪われし街よ、我が逆鱗の前に、凍てつく結晶と果てよ。久遠の呪縛、時空を越え封印されし。かの街の命、一片たりと呪縛より放たれぬ。永久の眠りに果てつる。
フレイリスは背筋を正していた。ようやく声の主の正体を察したのだ。
(これは氷の女神クレイシャ!)
吹雪が収まった。
「あたしにこんなものを見せてなにをさせようというんだ」
『滅ぼしなさい』
「滅ぼす?」
『ラシャリーヤのすべてを滅ぼすのです。剣士よ、あなたにはそれができる。銀糸の魔導士と共に』
「女神の怒りを買って異空間へ封じられた。それを滅ぼすのは女神の意向に反すのでは? またも新たな怒りを買うんじゃないのか?」
『悪事に利用され、人々に災いをもたらすならば滅びねばなりません。人でありながら魔の心を持つ者を滅ぼすは、あなたの役目のはず』
声がふっと消えた。同時に吊られているセラの姿も消失した。空間も入室した時の部屋に戻っている。
(セラが捕まった? まさか、信じられない。だけど、悪事に利用されってのは、セラが言っていた、女王ティーネスの他に誰かいるってのと符合する)
フレイリスの口端に笑みが浮かぶ。
(ってことは、役者が揃ったってことだね。さっさとセラと姫を助けてこんな場所からおさらばだ)
フレイリスは部屋を出て長い廊下を駆け出したのだった。




