17話
◆◆ ◇◇ ◆◆
空間に変化があった。あたりは相変わらずの闇だが、風向きが変わった。フレイリスは遥か前方にいる、まだ幼い少年の姿を確認した。どこを見ているのかわからない、ぼんやりした表情をしている。
銀色の髪を肩ほどに切り揃えた美少年――セラだ。先ほど消えたセラが復活している。
(セラ?)
美少年はまるでフレイリスの心の声が聞こえたかのようにピクリと肩を震わせ、視線をこちらに向けてきた。爬虫類のような目がフレイリスを捉える。フレイリスはざわめきのようなものが足元から這い上がってくるような感覚に目を眇めた。
「気に入らないな」
ぼそっと声が落ちる。
「セラの正体を知ったら、あたしがあいつを蔑むと思ってるのか? 見くびんな」
子どものセラが右手を伸ばしてくる。
「今度はお仲間ごっこかい。つくづく頭が悪いな。あたしとセラは利害関係で結びついている。その結びつきが〝信頼〟だってことで、それ以外の感情はない。誰がやってるのか知らないが、こういうのがわからないってのは人間じゃないってことだ」
掴もうとする子どものセラの手をフレイリスはパシリと払った。子どものセラは驚いたように、そして傷ついたような顔を向けてくる。そんな子どものセラにフレイリスは笑いかけた。
「だからさ、引っかからないって。二度目だよ? あたしに二度も同じ手が通用すると思っているのか? お前はカイオスの剣士、〝浄化執行人〟を舐めすぎている」
フレイリスは片足を一歩後ろに引くと、大きく振りかぶって子どものセラに拳を打ち込んだ。
「へぇ」
子どものセラの小さな手がフレイリスの拳を掴んでいる。フレイリスはすかさず身を引き、立ち位置を変えた。
「ちったぁやるってか? 面白いじゃないか」
眉間に深いしわを刻むフレイリスの目の前で、子どもだったセラの背たけが伸びた。顔も少し変わり、大人びたものなる。八歳くらいの子どもが、十四、五歳くらいに成長したという感じだ。
――フレイリス。
その瞬間、フレイリスはハッと息をのんだ。
ここは古代に繁栄した魔都だ。今を生きるフレイリスのことを知っているはずがない。それなのに名を呼ぶとは。
――フレイリス、不毛なことはよせ。
フレイリスのこめかみがピクリと震えた。
――魔都ラシャリーヤは今宵復活する。古代、強力な魔道力によって栄華を極めた都だ。共に見届けよう。
ひゅんひゅんと剣先が空を舞い、最後にピタリとセラの顔に定まった。それが否の意志だということは伝わったようで、セラが目を眇めた。するとまた背たけが伸び、今度は見慣れたセラになった。
――フレイリス。私の言葉がわからないのか。
「残念ながら、わからないね。だってお前、セラ・リヤードじゃないからさ」
――そんなことはない。お前のよく知るセラ・リヤードだ。
「ほら、もう間違ってる。妖魔は人間の操る言葉の機微がわからないんだろうさ。でも、そんな小さな積み重ねによって物事はガードされている。人間は目には見えないバリアを張っている。言葉、風習、習慣、文化、思想、宗教。自分と異なるか否かを示している」
――なにを言っているんだ。フレイリス、この魔都の支配ができれば、我々は大いなる力で世界を手中に収めることができるんだ。ここにはそれだけの魔力がある。
(あたしは誘惑されているのかな。その〝大いなる力〟を手に入れたら、カイオスの剣士なんてせずに済むってか? それは無理だろう。だって、あたしは主上から離れられない。主上が握っている鎖を断ち切ることはできない。なんたって、主上に生かされているんだから。だからあたしは、常に冷静でいられる。何物にも誘惑されず、唯一無二であるのだから)
フレイリスはいきなりセラの目前まで歩み寄り、拳を打ち込んだ。セラの肩に当たり、ガツッと音を立ててその部分が吹き飛ぶ。周囲に飛び取った肉片は、床に落ちると砂に変わった。
――乱暴な。
「そう、あたしは乱暴で、野蛮なんだよ。なんたってカイオスの〝浄化執行人〟だからね。対象者の心を問答無用で浄化する」
――浄化?
「ああ。悪域への傾斜が浅ければ助かり、深ければ壊れる。あまりにひどければ死に至る。人間の心の善悪を量るんだ。だけど、妖魔は対象外。問答無用で倒す」
二打目を打ち込むが、セラは腕でかわした。そこへ回し蹴りを食らわせる。セラの脇腹に決まり、その部分が削られるように吹き飛び、砂に変わった。
続けてクルリと回り込んで腹に一撃。拳が体を貫通した。
――フレイリス。
呼ぶ声に憂いがある。罪悪感を呼び起こす声音だ。
「無駄だ!」
左の拳を首元に打ち込んだ。右肩から空いた腹に向けてひびが入る。そこから砕けて頭が体から剥がれ、床に落ちた。
――フレイリス!
今度の声音には非難があった。
――なんということを。愚か、なこ、と、を。
責めの色が濃い。しかし最後のほうは小さくなって聞こえなかった。
体が崩れ始め、あっという間に砂の塊と化した。そこに鍵があった。ボディは他の二本と同じ金だが、ヘッドは球体で赤く輝くルビーだ。
「三本目か。嫌だね、まったく。敵だとわかっていても、信頼してるヤツを殴るのは気持ちのいいもんじゃないからさ」
その口調には強い憤りがあった。
◇◇ ◆◆ ◇◇
黒い炎の道を歩くことでようやく廊下を通り抜けることができた。この廊下は空間を細切れにして結びつけられていた。セラが歩けば結びを変えて前へ前へと伸ばしていたのだ。黒い炎がつなぐ道は廊下のわずか上に浮いており、つぎはぎの空間を踏まない。それでようやく、進んでも進んでもたどり着けなかった廊下の向こう側に到着することができた。
(おそらく、ここからが本題だろう。さて、なにが出てくるのやら)
脳裏に赤髪の魔導士カーヒルを思い浮かべ、思わず苦笑する。
(確かにカーヒルからしたら私など赤子同然だろう。〝赤い大魔女〟と呼ばれるほどの大魔導士だ。正攻法では勝ち目はない。だが、こちらにはフレイリスがいる。カイオスの〝浄化執行人〟の中でも特に恐れられている剣士で、〝血のリコリス〟だ。わずかな時間でも魔法を封じれば、きっとフレイリスが仕留めてくれる。とにかく、早くアリューシャ姫を見つけてフレイリスと合流するんだ。『女王の秘匿の間』へ急げ)
セラは足を速めた。だが、わずかも進まないうちに止まる。なんだか嫌な気配を覚えた。
(なんだ、この絡みつくような気持ちの悪さは)
ネットリとした感覚。空気がカビ臭い感じだ。じわりと脂汗が滲んでくる。その時、足を掴まれたような感覚が起こった。
『光よ、これへ!』
叫ぶと、杖の竜の目が輝き、眩いばかりの光を放つ。周囲が明かりに包まれる。廊下は真っ黒で数え切れない数の波紋が浮いて波打っている。セラは水の上に立っているような状態だった。そして波打つ廊下からは黒い手が生えていて、まるで踊っているようにヒラヒラと動いている。その中の一本の手がセラの足首を掴んでいた。
足を振って払い除けようとするものの、ガッチリ掴れていてどうにもできない。
「くっ」
杖の先で手を刺してみるが、ぐにゃりと変形して衝撃を緩和してしまう。こんなに柔らかいのに、掴む手は緩まない。
セラは思わず屈んで手で拘束を解こうとした。
「あ!」
マントの裾を引っ張られる。それも数か所。さらに長く伸びた手に腕のあたりを掴まれた。
「しまったっ」
慌てた隙を衝かれて杖を奪われてしまった。落ちた杖が沈んでいく。さらに髪を掴まれたかと思った瞬間、すべての手が強い力で一斉にセラを下へと引っ張った。
「うわっ」
水の中に沈むように下へ下へと引っ張られていく。そしてとうとう、セラの姿は完全に呑まれて消えてしまった。




