「最終章・第二部:双つの命、王の覚悟⑤」
第五話:凱旋、そして命の始まり
北の脅威が去ってから、ひと月後。
都は、歓喜に沸いていた。北方の蛮族に完全勝利を収めた、皇太子・朱華の凱旋の日である。
沿道は、国の英雄を一目見ようと、民で埋め尽くされていた。
静月殿の最も高い楼閣から、雪藍は、その光景を静かに見下ろしていた。
隣には、傷も癒え、彼女の影として片時も離れなかった凛と、忠実な侍女たちの姿がある。
雪藍の腹部は、豊かな絹の衣の上からでも分かるほど、大きく、丸く膨らんでいた。
彼女は、その愛おしい膨らみにそっと手を当て、遠くに見える城門を、じっと見つめている。
「…姉上。兄上が、お帰りです」
凛の静かな声に、雪藍は涙を浮かべながら、強く頷いた。
「ええ…。ええ、凛…」
やがて、地響きのような歓声と共に、軍の先頭が姿を現した。
先頭に立つのは、黒い軍馬に跨り、戦の傷跡も誇らしげな黒鉄の鎧を纏った、朱華。
その隣には、友情の証として、黄金の鎧を纏ったカイ王子が、笑顔で並んでいる。
雪藍の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
(…おかえりなさいませ、あなた…)
その日の夕刻。すべての祝賀行事を終えた朱華は、誰よりも先に、静月殿へと戻ってきた。
彼は、庭で彼を待っていた雪藍の姿を認めるなり、その足早に駆け寄る。
戦場を駆けた皇太子は、今はただ、愛しい妻を求める一人の男だった。
彼は、雪藍の前に立つと、言葉もなく、その大きく膨らんだお腹の前に、ゆっくりとひざまずいた。
そして、戦で少しだけ節くれだった手を、その丸みにそっと触れさせ、自らの額を押し当てる。
「……ただいま、戻った」
その声は、万感の想いに、震えていた。
「…よく、守り抜いてくれたな、雪藍。…そして、我が子らよ」
「おかえりなさいませ、あなた」
雪藍は、涙で濡れた声でそう言うと、彼の黒髪を優しく撫でた。
朱華は、ゆっくりと立ち上がると、腹の子に障らぬよう、しかし、二度と離さぬというように、雪藍の身体を、強く、強く、抱きしめた。
離れていた数ヶ月の時を、埋めるように。
その、完璧な再会の瞬間。
「あ…っ!」
雪藍の身体が、不意に強張った。彼女は、苦痛に顔を歪め、自分のお腹に手を当てる。
「雪藍!?どうした!」
朱華の顔から、さっと血の気が引く。
「しゅか、さま…!もしか、して…この子たちが…」
その言葉と同時に、雪藍の足元で、羊水が破れる音がした。
「始まった…のかもしれません…!」
「なっ…!」
国の英雄も、百戦錬磨の将軍も、今はいない。
そこにいたのは、愛する妻の一大事を前に、ただ狼狽えることしかできない、一人の男だった。
「い、医者だ!誰か、医者を呼べ!」
朱華の絶叫に近い声が、静月殿に響き渡る。
碧葉たちが、血相を変えて駆けつけ、雪藍の身体を支える。
「雪藍様、しっかり!」
「ご安心ください、私たちがついております!」
雪藍は、痛みの中で、それでも、自分の手を固く握りしめる朱華を見つめ、必死に微笑んだ。
(…ああ、この方は、間に合ってくださったのだわ…)
その安堵と共に、彼女の意識は、新しい命をこの世に送り出すための、長く、そして激しい戦いの中へと、沈んでいった。
朱華は、ただ、蒼白な顔で、彼女の手を握りしめながら、叫ぶことしかできなかった。
「雪藍…!しっかりしろ!」
双つの命の誕生は、もう、目前に迫っていた。




