「最終章・第二部:双つの命、王の覚悟②」
第二話:妃の戦場
朱華が戦場へと旅立ってから、一月が過ぎた。
静月殿の主である雪藍は、ただ夫の帰りを待つ、か弱い妃ではなかった。
彼女には、彼女だけの戦場があった。
「雪藍様、どうかご無理はなさらないでください!」
葵が、心配そうに声を上げる。雪藍の腹部は、衣の上からでも分かるほど、ふっくらとし始めていた。
しかし、彼女は穏やかに微笑むと、手元の作業を止めない。
静月殿の大広間は、臨時の作業場と化していた。集められた侍女たちが、雪藍の指示のもと、無数の香袋を縫い上げている。中に入れるのは、雪藍が特別に調合した、人の心を深く鎮める力を持つ香だ。
「ありがとう、葵。でも、私だけが、休んでいるわけにはいきません。…このお腹の子たちも、戦地にいる父親の帰りを、きっと待っている。…母として、妃として、今、私にできることをしなくては」
完成した香袋は、雪藍自らの手で、兵士たちの家族一人一人へと手渡された。
初めは遠巻きに見ていた人々も、身重でありながら、自分たちと同じように夫の無事を祈り、民のために尽くす妃の姿に、次第に心を打たれていく。
彼女が、ある母親の手に香袋を握らせながら、こう語りかけた。
「皆様のお心の内、お察しします。私も、毎夜、夫の無事を祈っております。…このお腹の子らと共に。…私にできることは、多くはありません。ですが、この香りが、ほんの少しでも、皆様の心を慰めることができたなら…」
その言葉に、母親は涙を流して感謝した。
いつしか、民は彼女のことを、敬意と親しみを込めて「慈母の妃」と呼ぶようになっていた。
そのすべての公務の傍らには、常に、氷の瞳を持つ一人の少年の姿があった。凛だ。
彼は、朱華から託された言葉を、片時も忘れることはない。
『俺がいない間、姉上と、その腹の子らを、命懸けで守れ』
凛は、雪藍の「影」となり、あらゆる危険から彼女を守る、完璧な守護者となっていた。
その日の夕刻、公務を終えた雪藍が、めまいでふらりとよろめいた。
その身体を、音もなく現れた凛が、力強く、しかし優しく支える。
「姉上。ご無理は禁物です。腹の子らのためにも」
その声は、年若い少年のものとは思えぬほど、静かな覚悟に満ちていた。
「ありがとう、凛。あなたがいると、心強いわ」
雪藍が微笑むと、凛はただ、無言で頷き返した。
夜、一人、寝所に戻った雪藍は、朱華のために作った、たった一つの香袋を、そっと握りしめた。
窓の外には、冷たい月が浮かんでいる。彼女は、北の空を見上げた。
(朱華様…。あなたは、今どこに…。どうか、ご無事で…)
離れていても、心は一つ。
それぞれの戦場で、二人は、互いを想い、戦い続けていた




