「最終章・第二部:双つの命、王の覚悟①」
第一話:戦場へ
北方の戦況は、日を追うごとに熾烈を極めていた。
その日、皇城の大広間は、これまでにないほどの緊張に包まれる。血と砂にまみれた伝令が、皇上の御前にひざまずき、絞り出すように報告した。
「申し上げます!北の重要拠点、鷲ノ巣砦が…陥落いたしました!」
その一言に、居並ぶ将軍たちがどよめく。
「馬鹿な!あの砦が、わずか数日で…!」
「蛮族どもめ、これほどの兵力を隠し持っていたとは…!」
怒号と、焦燥の声が飛び交う。皇上は、玉座で静かに目を閉じ、その報告の重みを噛み締めていた。
その喧騒を、凛と、そして静かな一言が切り裂いた。
「――父上」
声の主は、朱華だった。彼は、ゆっくりと玉座の前へと進み出る。その表情から、いつもの穏やかさは消え、次代の王としての、鋼のような覚悟が浮かんでいた。
「皇太子であるこの俺に、出征のご裁可を」
「殿下!」
将軍たちが、一斉に驚きの声を上げる。
「なりません!殿下は、この国の中枢!万が一のことがあれば…!」
だが、朱華は揺るがない。
「ならば、なおのこと俺が行く。この国の未来を、そして、俺が守るべき者たちを、蛮族の好きにはさせぬ」
その言葉に、皇上はゆっくりと目を開いた。息子の瞳に宿る、父としての、そして夫としての、揺るぎない決意の光を見て、静かに頷いた。
「…許す。国の未来、そなたに託すぞ、朱華」
その夜、静月殿の寝所は、静まり返っていた。
雪藍は、無言で、朱華の黒鉄の鎧の紐を結んでいく。
その指先は、気丈に振る舞おうとすればするほど、かすかに震えた。
冷たく、硬い鎧の感触。それは、これから彼が赴く、戦場の厳しさを、雪藍に容赦なく突きつけていた。
出立の朝。朱華が最後の身支度を整えていると、雪藍は「念のため」と言って、老医師を部屋に呼んでいた。
医師は、雪藍の脈を診ているうちに、不思議そうな顔で何度も首を傾げる。
隣で見守っていた朱華が、不安げに声をかけた。
「どうした?何か問題でも?」
医師は、驚きと畏敬の念に満ちた表情で、深く頭を下げた。
「…いえ、問題など…これは…奇跡でございます。…殿下、妃殿下。おめでとうございます。…お腹の中には、お二人の御子が…お二人、いらっしゃいます」
その言葉に、朱華と雪藍は息を呑む。朱華は、戦場へ向かうまさにその朝に、自分が二人の子の父となることを知ったのだ。
彼の背負うものの重さが、そして守るべきものの尊さが、何倍にもなって彼にのしかかる。
彼は、完成した鎧の重さも感じさせず、雪藍の前に、そっとひざまずいた。
そして、彼女の、わずかに膨らみ始めたお腹に、自らの額を、祈るように押し当てる。
「…聞いたか、我が子らよ。父は、ここにいる。…何があっても、お前たちと、お前たちの母を、この命に代えても守り抜く。必ずだ」
その、腹の底から響くような、父の誓いの声。
雪藍は、もう何も言えなかった。ただ、彼の黒髪に指を絡め、涙を流し続けた。
軍の出立の刻が来た。
静月殿の最も高い楼閣から、雪藍は、凛と、侍女たちと共に、眼下に広がる光景を見下ろしていた。
宮殿の前庭は、出征する兵士たちの、無数の鉄兜と槍先で埋め尽くされている。
その中心に、黒い軍馬に跨る、朱華の姿があった。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、楼閣の上に立つ、ただ一人を探す。
やがて、二人の視線が、遥か遠くで、しかし確かに、結ばれた。
朱華は、彼女にだけ分かるように、力強く、一度だけ頷いた。
(待っていてくれ)
雪藍もまた、涙を堪え、強く頷き返す。
(お待ちしております、あなた)
朱華は、もう振り返らなかった。
彼は、剣を高く掲げ、鬨の声を上げる。
「――出陣!」
地響きのような雄叫びと共に、璃州国の軍勢は、北の戦場へと、進軍を開始した。
雪藍は、その背中が、朝靄の向こうに見えなくなるまで、ただ、祈るように、立ち尽くしていた。




