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「最終章・第一部:光と影の胎動①」

第一話:北風の報せ


秋が深まり、宮廷の木々が最後の輝きを放つ頃、北の国境から、冷たい風と共に不穏な報せが届き始めた。

これまで静観を続けていた北方の蛮族が、突如として国境の村々を襲い、侵攻を開始したというのだ。


朱華の書斎には、連日、軍議の緊張と、書簡が発する墨の匂いが満ちていた。

彼は、壁に広げられた巨大な地図を睨みつけ、その眉間には、これまで雪藍が見たこともないほどの深い皺が刻まれている。


「…兵の数が、こちらの想定を遥かに上回っている。これは、単なる略奪ではない。明確な意図を持った、侵略だ」


彼の低い声が、張り詰めた空気を震わせた。

皇太子として、そして次代の王として、朱華は国の存亡を賭けた、大きな決断を迫られていた。


一方、その頃、静月殿では、もう一つの、静かな変化が訪れていた。


「雪藍様、お顔の色が…」


碧葉が、心配そうに声をかける。

雪藍は、いつものように香の調合をしていたが、ふと、強い目眩に襲われ、その場にしゃがみ込んでしまったのだ。


「大丈夫です、少し立ちくらみがしただけで…」


そう言って微笑む雪藍の顔は、青ざめていた。


「ですが、最近、食も細くなっておられますし…」と葵が涙ぐむ。

「それに…あれほどお好きだった白檀の香りを、今日は避けていらっしゃいましたわ」


菫の鋭い指摘に、雪藍自身も、はっとする。

確かに、最近、身体が熱っぽく、大好きだったはずの香りが、なぜか不快に感じられることがあった。

そして、妙に、酸っぱい果実ばかりが食べたくなるのだ。


(…まさか…)


彼女の胸に、信じられないような、しかし、どうしようもなく甘い予感が、芽生え始めていた。


侍女たちが下がった後、雪藍は一人、お腹に手を当てる。


(…もし、本当に、この身に新しい命が宿っているのなら…。それは、これ以上ないほどの喜び。けれど…)


彼女の脳裏に、地図を睨む朱華の苦悩に満ちた顔と、「侵略」という彼の言葉が蘇る。


(この国が、戦乱に巻き込まれようとしている、この時に…?私は、この子を、無事に産み、守ってあげられるのだろうか…)


喜びと同時に、妃として、母として、この子を戦乱に巻き込んでしまうかもしれないという、深い不安が彼女を襲った。


その夜、朱華は、夜更けにようやく静月殿へと戻ってきた。

その身には、まだ戦場の鉄と血の匂いが、かすかに染み付いているようだった。


「…雪藍」


彼は、雪藍の姿を見るなり、その日のすべての疲れを忘れたかのように、彼女を強く抱きしめた。


「…すまない。最近、お前とゆっくり話す時間もなくて…」

「いいえ。朱華様こそ、お疲れでしょう」


雪藍は、彼の背中にそっと腕を回す。


「…だが、こうしてお前を腕の中に感じていると、思うのだ。もし、この温もりを失ったらと…。その恐怖が、俺を戦へと駆り立てる」


彼の、初めて聞く弱々しい本音。雪藍は、ただ黙って、彼の背中を優しく撫でた。

朱華は、彼女の髪に顔を埋め、その香りを深く吸い込む。


「…ああ。やはり、お前だけが、俺の唯一の安らぎだ」


やがて、朱華は再び軍議へと戻っていく。

一人残された寝所で、雪藍は、そっと、自分のお腹に手を当てた。

そこへ、心配そうに様子を見に来た碧葉が、おずおずと、しかし確信に満ちた声で、問いかけた。


「雪藍様…。…もしかして、それは…おめでたい兆し、ではございませんか…?」


その言葉は、北から吹く冷たい風とは対照的な、どこまでも温かい、希望の光となって、雪藍の心に降り注いだ。

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