「待つ者の章」
章1:遠い日の沈丁花
朱華が遠い西方へ出陣してから、一月が経った。
宮廷は平穏を取り戻したかに見えたが、その裏では、戦況を巡る噂が静かに渦巻いていた。
雪藍は、香女として宮廷での日々の務めに追われながらも、時折、彼と密やかに言葉を交わした硝子の回廊や、香が舞った庭園の景色を思い返していた。
彼の不在は、雪藍にとって空虚そのものだった。あの冷ややかで深く、官能的な沈丁花の香りが、今はただ、記憶の中にしか存在しない。
夜の帳が降りる頃、雪藍は人目を避けて、あの沈丁花の木の下に立った。
朱華の香りがまだそこに残っているような気がして、そっと目を閉じる。
胸元には、朱華に渡した香のお守りと同じ香りを染み込ませた、小さな香袋を身につけていた。それを握りしめるたび、遠い日の温もりと、遠い旅立ちの香りが蘇り、涙腺が緩むのを感じた。
「…朱華様……」
声にならない祈りが、夜風に運ばれていく。そのとき、背後から優しい、しかしすべてを見透かすような声が聞こえた。
「雪藍。いつからだろうね。お前が調合する香りに、沈丁花の香が混じり始めたのは」
振り返ると、雪藍の師匠である翠芳がそこに立っていた。
彼女の瞳は厳しくも温かく、その眼差しは二人の間にあった秘められた感情をすでに知っているようだった。雪藍は動揺し、すぐに香袋を衣の奥に隠した。
「翠芳様……」
「大丈夫だよ。お前の秘密は、沈丁花の香りがすべて守ってくれる」
翠芳はそれ以上は何も追及しなかった。
ただ静かに、その場を離れていく。
その背中を見送りながら、雪藍は涙をこらえた。
朱華のいない宮廷で、秘密を共有する唯一の人物ができた。
その事実が、彼女の心をわずかに軽くした。
章2:砂の匂いの手紙
出征から半年が経ち、戦況に関する噂はより不穏なものになっていった。
朱華の軍が苦戦している、という話が宮廷の隅々で囁かれる。
雪藍の不安は日増に募り、夜も眠れぬ日が増えていた。
そんなある夜、女官部屋にある雪藍の私室の扉が密かに叩かれた。
開けると、見慣れない密使がそこに立っていた。
「雪藍様…朱華殿下より、文をお預かりしました」
渡された小さな文箱からは、朱華の香りが微かに残っていた。
雪藍は震える手で文箱を開ける。中には一通の手紙と、西方の荒野で摘まれたであろう、見慣れない小さな花が添えられていた。手紙には、戦況の報告はほとんどなく、ただ雪藍への深い愛情が綴られていた。
「雪藍、私は元気だ。戦の日々にも、お前がくれた香袋を肌身離さず持っている。
どんなに辛い日でも、お前の香りと温もりが私を支えてくれる。
お前が待っていてくれると信じているから、私は前に進めるのだ。」
雪藍の目から涙が溢れた。その手紙は、朱華がどれだけ自分を想っているか、そして彼もまた孤独な戦いの中にいるかを物語っていた。添えられた花からは、戦場の乾燥した砂の匂いと、それでもなお朱華の温かい想いが伝わってきた。
その夜、雪藍は翠芳の部屋を訪ねた。
初めて、朱華からの手紙を彼女に見せる。
翠芳は黙って手紙を読み、最後に花をそっと手に取った。
「この花は、西方の荒野にしか咲かない花だね。厳しい環境で育ち、それでも健気に花を咲せる。朱華殿下は、お前に、花を贈ったのではない。この花に、お前への想いと、彼の決意を託したのだ」
翠芳の言葉に、雪藍の不安は少しずつ溶けていった。朱華は、確かに生きている。
そして、離れていても、二人の心は香りで、手紙で、確かに繋がっているのだと。
章3:不安と希望の狭間で
それからも、半年ごとに朱華からの手紙が密かに届いた。
しかし、戦況は悪化の一途を辿り、朱華の身に危険が迫っているという噂が宮廷を駆け巡る。
雪藍は夜ごと、朱華の無事を祈りながら、もはや文字が掠れそうになったお守りを胸に抱きしめていた。
ある夜、翠芳は雪藍に香の調合を命じた。
「お前は香女だ。不安を香りに込めるのは、香女としての未熟さを示す。
お前が今、調合すべきは、希望の香りだ」
雪藍は戸惑った。不安に押しつぶされそうな中で、どうやって希望の香りを調合すればいいのか。
しかし、彼女は翠芳の言葉に従い、香木と薬草を手に取った。
香炉に香が焚かれる。
沈丁花、檀木、そして幾つもの香草が織りなす香りは、最初は不安定で、焦りや不安を滲ませていた。しかし、雪藍が朱華の笑顔や、彼の言葉を思い出すたびに、香は次第に変化していく。
不器用だが、温かい。孤独だが、確かな希望を秘めた香りに、翠芳は満足げに頷いた。
「この香りは、お前の心そのものだ。この香りをまとっていなさい。いつか、お前の希望が、遠い西方の朱華殿下に届くように」
雪藍は涙を流した。翠芳は、ただ厳しく指導しているのではない。
彼女の孤独に寄り添い、香を通して希望を与えてくれていたのだ。
章4:再会を信じて
2年という長い歳月が流れ、ようやく都に朗報が届いた。
朱華の軍が西方を平定し、まもなく帰還するという知らせだった。
宮廷は歓喜に沸き、人々は英雄の帰還を心待ちにしている。
しかし、雪藍はまだ信じることができなかった。本当に朱華は帰ってくるのか?
2年間、不安と希望の狭間で揺れ続けた彼女の心は、歓喜の報せを受け入れきれずにいた。
そんな彼女に、翠芳は語りかける。
「お前の香りは、もう大丈夫だね。不安も、孤独も、希望の香りが包み隠して、朱華殿下を温かく迎えるだろう」
雪藍は翠芳の言葉に、ようやく笑顔を見せた。彼女はもう、かつての弱々しい見習い香女ではない。孤独を乗り越え、朱華を待ち続けた2年間が、彼女を強くしていた。
そして、その日の夕刻。雪藍は朱華の部屋を密かに訪れ、彼の部屋の香を調合した。
朱華が宮廷を去ってから、ずっと手入れされてきたその部屋は、今も彼が残した沈丁花の香りが微かに残っていた。そこに、雪藍は新しい香りを加える。それは、彼女が2年間かけて調合し続けた、希望の香りだった。
「朱華様……おかえりなさいませ」
それは誰にも聞かれない、彼女だけの再会の言葉だった。
沈丁花の香と、彼女が紡いだ希望の香りが、再会を目前にした二人の心を温かく包み込み、そして、やがて来る再会の日へと導いていくのだった。
現在は、ムーンライトノベルズ版で執筆していますが、
「小説家になろう」R15版としても同時掲載しております。
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タイトル: 「控えめな香女は、皇太子殿下の甘い独占欲に囚われ、夜ごと心をほどかれていく」
https://novel18.syosetu.com/n5765la/
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