「蛍雪の夜、二組の恋模様」
章1:蛍雪の功
その日の昼下がり、朱華の書斎を、一人の年老いた宦官が訪れた。彼は、朱華が目を通している書簡の山を見て、恭しく、しかし諭すように言った。
「殿下。古の偉人は、蛍の光や雪明りで書を読み、大成したと申します。殿下のその熱心さ、必ずや国のためとなりましょう」
その言葉に、朱華はふと顔を上げた。眉間の皺が消え、彼の黒曜石の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。
「…ほう、蛍の光、か。面白いことを聞いた」
彼はすぐに凛を呼び出すと、書斎の人払いをした。
「凛。今宵、静月殿の庭で、蛍を飛ばそうと思う」
「…蛍、ですか。…一体、何を企んでおられるのです」
凛の、全てを見透かすような、鋭い灰色の瞳。朱華は、楽しそうに喉で笑った。
「企み、か。まあ、そうだな。…姉上が、きっと喜ぶ」
その言葉に、凛の灰色の瞳が、わずかに揺れる。朱華は、その機微を見逃さず、追い討ちをかけるように言った。
「もちろん、碧葉も、葵も菫もだ。女というものは、ああいう儚い光に弱いからな」
碧葉が、蛍の光に照らされて、驚き、そして微笑む姿――。
その光景を想像した瞬間、凛の頬が、ほんのりと赤く染まった。
「…承知いたしました。兄上」
その日の夕刻、朱華と凛は、お忍びで宮廷の裏手にある小川へと向かった。
「…凛。お前、やけに熱心ではないか。姉上のためか?…それとも、あの真-目な侍女頭のためか?」
蛍を捕まえながら、朱華がからかう。
「…俺は、兄上の『影』としての務めを果たしているだけです」
そっぽを向きながら答える凛の耳が赤い。
朱華は楽しそうに笑うと、ひときわ大きく輝く蛍を捕まえ、凛が持つ別の小さな水晶の入れ物に、そっと移した。
「…そうか。ならば、この一番美しい光は、姉上の侍女頭に、お前が渡してやれ。女というものは、特別なものに弱いからな」
章2:乙女たちの溜息
その頃、静月殿では、雪藍と侍女たちが、少しだけ寂しい夜を過ごしていた。
「それにしても、殿下も凛様も、今宵はお忙しいのですね。何か、秘密の政務でしょうか?」
葵が、溜息をつく。
雪藍も、窓の外の闇を見つめていた。
「ええ…。きっと、国のための大切なお話なのでしょう。…少しだけ、寂しいですけれど」
主たちの「真面目な仕事」を信じ、健気にその帰りを待つ彼女たちは、この後自分たちを待ち受ける、幻想的な光景を、まだ知らなかった。
章3:掌中の光
夜が更け、ようやく朱華と凛が静月殿に戻ってきた。
「雪藍、少し庭に出ないか。お前に見せたいものがある」
朱華に手を引かれ、雪藍は侍女たちと共に、夜の庭園へと足を踏み出す。
次の瞬間、彼女たちは息を呑んだ。
朱華と凛が、そっと籠の蓋を開けると、無数の金色の光が、一斉に夜空へと舞い上がったのだ。
それは、まるで地上に降りてきた天の川。蛍の群れが、幻想的な光の渦を描きながら、静月殿の庭を、世界で一番美しい場所へと変えていた。
「まあ…!」
雪藍も、碧葉も、葵も、菫も、そのあまりの美しさに、言葉を失う。
無数の蛍が舞う中、一匹の蛍が、雪藍の指先にそっと止まった。
朱華は、その蛍を、自分の掌でそっと覆い、光を閉じ込める。
「見ろ、雪藍。このか弱き光さえも、お前の美しさに捕らえられた。…だが、お前を捕らえ、その全てを独り占めにできるのは、この俺だけだ」
蛍の光が、二人の顔を淡く照らす中、彼は深く、情熱的な口づけを落とした。
雪藍は、彼の胸に額を寄せ、囁く。
「…はい。私は、喜んで、あなた様に捕らえられましょう。この蛍の光のように、あなた様だけの掌の中で、輝きたいのです」
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていた侍女たちが、感極まった声を上げた。
「殿下、凛様!こんなに素敵な夜を、本当にありがとうございます!一生の宝物です!」と葵が涙ぐむ。
菫は、うっとりと雪藍を見つめ、「雪藍様…。殿方お二人の、雪藍様を想うお心が、この光になったのですね…。美しすぎて、涙が…」と続けた。
一方、その光景から少し離れた場所で。
碧葉の頬に、一匹の蛍が止まった。凛は、それに触れたいのに、触れられない。
その指先が、彼女の頬に近づき、ためらい、そして止まる。
その、あまりに初々しい仕草に、碧葉は思わず微笑んでしまう。彼女は、自ら凛の肩にそっと頭を寄せた。
「…大丈夫ですよ、凛様。私は、蛍のようには、どこへも飛んでいきませんから」
凛は、何も言えない。
ただ、肩にかかる彼女の髪の重みと、花の香りに、心臓が破裂しそうになっていた。
彼は、意を決すると、懐に隠していた、あの水晶の入れ物を取り出した。
蓋をそっと開けると、ひときわ大きく輝く一匹の蛍が、まるで祝福するように碧葉の周りを一度だけ舞うと、夜空へと高く、高く、消えていった。
碧葉は、その光の軌跡を、夢見るような瞳で見つめていた。言葉はない。
だが、それが彼からの、不器用で、最大限の贈り物であることを、彼女は理解していた。
章4:どちらの光が
静月殿の寝所に戻った二人。
窓辺には、道中ではぐれて、部屋に迷い込んできた一匹の蛍が、ガラス瓶の中で淡い光を放っている。
雪藍が、その光を愛おしそうに見つめていると、朱華が背後から優しく彼女を抱きしめた。
「…蛍の光も美しいが、やはり俺は、お前が閨で見せる、潤んだ瞳の光の方が好きだ」
彼はそう言うと、部屋の燭台の火を、ふっと吹き消した。
部屋を照らすのは、月明かりと、一匹の蛍の、か細い光だけ。
彼は、暗闇の中、彼女の耳元で囁いた。
「…さあ、今夜は、どちらの光がより強く輝くか、試してみるとしようか」
雪藍は、彼の腕の中で、甘く、蕩けるように微笑んだ。




