「月の離宮と、二人だけの舞踏会」
その夜、静月殿の大広間は、諸国の使節や高官たちが集い、きらびやかな衣装と雅楽の生演奏に満ちていた。
妃として、雪藍は気品ある微笑みを浮かべ、各国からの客人をもてなす。
しかし、その内心では、華やかさの裏にある建前だけの会話に、少しばかりの疲労を感じていた。
朱華の隣に立ちながらも、形式的な振る舞いを強いられることに、微かな寂しさを覚える。
そのわずかな翳りさえも、朱華は見逃さなかった。遠くから見守る彼の瞳は、常に雪藍のただ一点を捉え、その指先までをも愛おしげに追っていた。
皇太子として威厳を持って客人と応対する朱華は、時折、雪藍にだけ向ける、気遣わしげで甘い視線を送っていた。彼女のわずかな疲れや、本心ではない微笑みを、彼だけは見抜いている。
そして、その視線は、一瞬たりとも雪藍から離れることなく、周囲の喧騒を全て隔絶するかのように、ただ彼女だけを熱く見つめ続けていた。 宴の休憩中、人目につきにくい回廊の奥で、朱華は雪藍をそっと連れ出した。
「雪藍。疲れたか?」
彼は、雪藍の手をそっと取り、一瞬躊躇うように見つめた後、その白い手の甲に、熱い唇をそっと寄せた。肌に触れる柔らかな温もりに、雪藍の心臓が小さく跳ねる。
雪藍が「いいえ」と答えるも、朱華は「お前の目は正直だ」と、彼女の額にかかる髪を優しく撫でた。
「本当の宴は、これからだ。…今宵、俺のためだけに、この殿を抜け出してはくれないか?」
雪藍は一瞬驚くも、朱華の悪戯っぽい瞳と、自分だけに向けられた秘密の誘いに、胸が高鳴るのを感じる。妃としての立場を忘れて、一人の女性として心が躍った。
「朱華様…よろしいのでございますか?」
その問いに、彼は雪藍の耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「お前が望むなら、どんな壁も越えてみせるさ」
雪藍の耳朶が熱くなり、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
彼の甘い吐息が触れるたび、肌が粟立つのを感じる。
ひっそりと静月殿を抜け出し、手を取り合って向かう先は、月の光だけが照らす、古い離宮。
「妃殿下が、このような真夜中に抜け出すとは、罰当たりめ」
朱華が悪戯っぽく言うと、雪藍が彼の腕にそっと顔を寄せ、甘く微笑んだ。
「朱華様こそ。私をこんなに甘やかして…」
「お前を甘やかすのは、俺の役目だろう?」 朱華はそう言いながら、雪藍の手をより強く握りしめた
。
二人の間には、誰にも邪魔されない、甘い期待感が満ちていた。
離宮へ向かう道すがら、夜風が雪藍の髪を乱すと、朱華がそっと手を伸ばし、優しく整えてやる。
その指先が、雪藍の柔らかな髪を撫で、うなじを滑るように触れた瞬間、雪藍の頬だけでなく、全身に熱が広がるのを感じた。
「この離宮は、もう長いこと使われていないが、月だけは変わらず訪れる」と朱華が語り、雪藍が「月明かりが、私たちを照らしているようです」と答える。
互いへの期待感と、秘密の逢瀬への高揚感が、二人の間に甘い空気を作り出した。
月の離宮の広間は、埃が薄く積もってはいるものの、広々とした空間に月光が惜しみなく差し込み、神秘的な雰囲気を醸し出していた。中央には、朱華が予め用意したらしい、たった一つの燭台がぼんやりと灯っている。
そして、広間の隅には、彼が隠し持っていた、小さな琵琶が置かれていた。
その光景に、雪藍は息を呑む。数多の豪華絢爛な宴を経験してきたが、この簡素ながらも朱華の心遣いが詰まった空間に、今まで感じたことのない深い感動を覚えた。
朱華は雪藍に歩み寄り、その手を取り、恭しくひざまずく。
「我が妃よ。今宵、俺のためだけに、この月の下で、舞ってはくれるか?」
雪藍は、溢れそうになる涙を堪えながら、朱華の差し伸べられた手を取った。
朱華が琵琶を手に取り、慣れた手つきで静かな調べを奏で始める。
それは、かつて故郷で聞いたような、郷愁を誘う旋律。
しかし、その音色には、雪藍への深い愛情が、切々と込められていた。
雪藍は、目を閉じ、その調べを全身で受け止める。
時折、薄く目を開け、真剣な眼差しで琵琶を奏でる朱華の横顔と、弦の上を滑る彼の指先に、愛おしげな視線を送った。
やがて、彼女はその調べに合わせて、ゆったりと、しかし優雅に舞い始める。
それは、宮廷の作法に則った舞ではない。朱華のためだけに捧げる、心からの舞だった。
雪藍の舞に合わせて、朱華の視線が彼女のしなやかな身体を追う。
舞い終えた雪藍を、彼は琵琶をそっと置き、優しく抱き寄せた。
互いの呼吸が重なり、視線が絡み合う。朱華が雪藍の腰をそっと引き寄せ、二人の身体が密着した。
雪藍の唇から、甘い吐息が漏れる。朱華の逞しい腕と、彼の独特の香りに包まれ、雪藍はまるで溶けてしまいそうだった。
「お前が俺のためだけに舞う姿は、この世で最も美しい。…これほど、お前を近くに感じられるとは…」
雪藍は顔を赤らめながらも、朱華の胸にそっと頭を預ける。彼の心臓の鼓動が、彼女の耳に心地よく響いた。
朱華が雪藍の顎をそっと持ち上げ、その瞳を深く見つめる。
互いの視線が絡み合い、どちらともなく、ゆっくりと顔を近づけていく。
そして、彼女の唇に、愛おしさを込めた、長く、深く、蕩けるようなキスを落とした。
触れ合う唇から、互いの熱が伝わり、その息遣いだけが広間に甘く響き渡る。
舞い終えた後、二人は広間の窓辺に寄り添って立った。
夜が明け始める空が、徐々に藍色から薄紅色へと変わっていく。
朱華は雪藍の手を握り、その薬指にそっと口付けを落とした。
「雪藍。お前は、俺の人生の最も美しい調べだ。どんな時も、お前と共に歩み、この手を離すことはない」
雪藍は、感動のあまり言葉に詰まるが、その瞳は朱華への揺るぎない愛で満たされていた。
「はい、朱華様…私も、決してあなた様の手を離しません。あなた様と共に歩むこの人生が、何よりも尊く、幸福でございます。この愛が、永遠に続くことを、月と星に誓います」
二人は、昇り始めた朝日に照らされながら、再び深く、しかし穏やかなキスを交わす。
「さあ、朝が来る。また、秘密を胸に、日常へ戻ろう。…だが、今宵のことは、二人だけの宝物だ」
朱華はそう微笑むと、雪藍の髪を優しく撫でた。
静かに離宮を後にする二人。足元に伸びる影は二つ、しかしその心は、月夜の舞踏会で一層深く結びつき、永遠の愛を誓い合ったのだった。




