「眠れぬ夜は、あなたの香りで」
章1:眠れぬ皇太子
深夜。静月殿の寝所は、月光に照らされて静まり返っていた。 雪藍がふと目を覚ますと、隣にいるはずの朱華の姿がない。 空になった寝台は、もうすっかり冷たくなっていた。 胸騒ぎを覚え、彼女はそっと寝所を抜け出す。
書斎の扉からは、灯籠の光が漏れていた。 雪藍が音もなく中を覗うと、朱華が一人、山積みの書簡を前に、深く眉間に皺を刻んでいた。 その横顔には、これまで見たことのないほどの深い疲労の色が浮かんでいる。
(…また、眠れぬ夜をお過ごしなのですね)
最近、隣国との緊張が高まり、朱華が夜遅くまで政務に追われていることを、雪藍は知っていた。 しかし、彼がこれほどまでに追い詰められた顔をしているのは、初めてだった。 見ているだけで、雪藍の胸が痛んだ。
章2:妃にしか調合できぬ薬
「朱華様」
雪藍が静かに声をかけると、朱華は驚いたように顔を上げた。
「雪藍…!どうして、起きたのだ」 「眠れぬのですか?」 「…少し、考え事をな」
そう言って、彼は弱々しく笑う。 その強がる姿が、かえって雪藍の心を締め付けた。
雪藍は何も言わず、彼を寝所へと優しく促した。 そして、部屋の隅にある小さな香炉棚から、彼女だけが知る特別な香木を取り出す。
それは、心を深く鎮め、穏やかな眠りへと誘う伽羅と、安らぎを与える白檀。そして――彼が何よりも好む、雪藍自身の肌の香りに似せた、甘い沈丁花を、ほんの少しだけ混ぜ合わせたもの。 彼のためだけに調合された、妃にしか作れぬ、愛の薬だった。
香炉から、細く、優しい煙が立ち上る。 その香りに包まれ、朱華の強張っていた心が、少しずつ、少しずつ、ほどけていくのを感じた。
雪藍は、寝台に横たわる彼のそばに座ると、まるで子守唄を歌うかのように、彼の髪を優しく梳き、そのこめかみを、指先でゆっくりと揉み解していく。
「私がおりますから。何も、ご心配なさらずに…。 今宵はただ、良い夢だけを」
その献身的な愛撫と、母のような優しさに、朱華の理性が、ゆっくりと蕩かされていく。
章3:一番甘い夢
「…駄目だ、雪藍」
朱華は、雪藍の手を取り、その瞳を熱っぽく見つめた。
「お前のその指先は、俺の疲れも、理性も、全てを麻痺させる…。眠らせてくれるのではなかったのか…?」
その声は、掠れ、熱を帯びていた。
雪藍は、くすりと悪戯っぽく微笑む。 そして、彼の指先に、そっと自分の唇を寄せた。
「ええ。心地よい眠りの前に、ほんの少しだけ、 もっと良い夢を、お見せいたします」
その言葉が、引き金だった。 朱華は、雪藍の身体を自分の方へと引き寄せると、 深く、甘い口づけを交わした。 その夜の閨事は、これまでのどの夜とも違っていた。 彼の心労を癒やすための、どこまでも優しく、慈愛に満ちた、とろけるような時間。
雪藍は朱華の身体にそっと触れ、優雅な指先でその額にかかる髪を払い、潤んだ唇をそっと彼の額に落とした。次いで、彼の力強い瞼に、やわらかな頬に、そして情熱を宿す口元へと、甘い口づけを重ねていく。 朱華の吐息が熱く雪藍の肌を撫でた。そのまま雪藍の唇は、朱華の首筋を辿り、鎖骨のくぼみへと誘われる。
「…雪藍…」
朱華の声が、甘く呻いた。 彼女の唇と指先が彼の肌を辿るたび、彼の身体は心地よさに応えるように微かに震える。それは彼の疲れを溶かすと同時に、深い場所にある渇望を静かに呼び覚ました。
「はぁ…雪藍…もう…」
彼の理性の糸が、彼女の慈愛に満ちた愛撫の前に、静かにほどけていく。 朱華は、雪藍の華奢な身体を、ゆっくりと寝台に引き寄せた。 そして、互いの肌を重ね合わせる。それは激しさではなく、ただひたすらに温もりを分かち合い、疲れた魂を慰め合うための、静かな結合だった。
「朱華様…」
雪藍から甘い吐息が漏れた。 朱華は、最初はゆっくりと、優しく身体を動かし始めた。愛を確かめるように、深く、そして丁寧に。 二人の間に流れるのは、言葉にならない安らぎと、絶対的な信頼。 雪藍の身体は、彼のすべてを受け入れ、その温もりで彼の心を包み込む。
「愛している、雪藍…」
朱華が愛の言葉と共に深く結ばれると、雪藍もまた、全身でそれに応え、官能の淵へと同時に達した。
章4:甘き誓い
愛の余韻に満ちた寝台の上で、二人は肌を寄せ合っていた。 朱華は、雪藍の柔らかな髪を優しく撫で、雪藍は朱華の逞しい胸板に顔を埋めている。
「…朱華様…」
雪藍の声は、甘く、とろけるようだった。
「無理をなさらないでくださいませ。あなたの苦悩は、私が半分、いえ、全てを分かち合いたいのですから」
朱華は、雪藍の言葉に、ふわりと微笑んだ。
「お前が傍にいてくれるだけで、俺の心は満たされる。疲れなど、すぐに吹き飛んでしまう」
彼はそう言うと、雪藍の額に、何度も何度も口付けを落とした。
「お前は、俺にとって、何よりも大切な光だ。 この静月殿で、お前以上の宝など、どこにもない」
雪藍は、朱華の言葉に、胸がいっぱいになるのを感じた。
「…私も、朱華様が、この上なく愛おしゅうございます。あなた様のお傍にいることが、私の最大の幸福」
雪藍は、朱華の首に腕を回し、その唇にそっとキスを返した。
「…凛と碧葉も、きっと、我々のように、強く美しい絆を築くだろう」
朱華は、愛おしそうに雪藍を抱き締めながら、静かに呟いた。
「はい。きっと、そうですわ。私どもが、その手本となりましょう」
雪藍は、彼の胸に顔を埋めたまま、確かな未来を見つめていた。 静月殿の夜は、二人の深く、そして甘美な愛の熱を、そして変わらぬ誓いを、静かに見守っていた。




