「凛と碧葉の恋物語」:第2部「心の揺らぎと距離の接近」
書庫に足繁く通うようになってから、凛は以前よりも碧葉との会話を増やす工夫をするようになった。
重い書物を運ぶ碧葉を見かければ、すぐに手伝いを申し出る。
「碧葉。その書は私が運ぼう。そなたが無理をしてはならない」
凛がそう声をかけると、碧葉はいつも穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、若君。ですが、これくらいは慣れておりますゆえ」
そう言いながらも、碧葉は凛に書物を差し出し、その指先が触れるたびに、凛の胸は期待と緊張で、きゅう、と締め付けられた。
ある日、書庫の高い棚に置かれた古い巻物を取ろうとした碧葉が、わずかにバランスを崩しかけた。その瞬間、凛の身体は思考よりも早く動いた。
「危ない!」
凛は碧葉の細い腰に腕を回し、もう片方の手で彼女の腕を支えた。二人の体が、ぴたりと密着する。
碧葉の華奢な腰の感触、薄衣越しに伝わる肌の温もり、そして淡い花の香りが、凛の理性を揺さぶった。
碧葉は驚きに目を見開き、ゆっくりと振り返った。
二人の顔が、驚くほど近くにあった。
碧葉のわずかに上気した頬と、戸惑いに揺れる瞳。
そのすべてが、凛の心臓を激しく打ち鳴らす。
「わ、若君…」
碧葉の声は、か細く震えていた。
凛は、碧葉の腰に回した腕を離せずにいたが、碧葉の視線に気づき、はっと我に返って慌てて手を引っ込めた。
「す、済まない。大丈夫だったか?」
「はい…。ありがとうございます、若君。助かりました」
碧葉は、すぐに視線を逸らし、小さく息を吸い込んだ。彼女の頬は、先ほどよりもさらに赤く染まっていた。凛もまた、顔が熱くなるのを感じ、慌てて巻物を取ると、そそくさとその場を離れた。
あの時感じた碧葉の温もりと香りが、凛の脳裏に焼き付いて離れなかった。
その後も、凛は碧葉が書庫の整理をしている時に、さりげなく隣に座り、歴史の話や異国の文化について語りかけることが増えた。
「碧葉が隣にいると、なぜか書物もいつもより興味深く読める。そなたの声を聞いていると、心が落ち着く...」
凛がそう甘く囁くと、碧葉は少し戸惑ったように目を伏せるが、その頬は微かに朱に染まり、小さな喜びが滲んでいるのが凛には分かった。
(…こんなにも、碧葉の存在が、私にとって特別になってしまったのか…)
碧葉もまた、凛の熱心な視線を感じるたびに、胸の奥がざわつくのを感じていた。
彼はただの年若い主君ではなく、どこか特別な感情を持って自分を見ているのではないかと、漠然とした予感が胸をよぎる。しかし、身分差をわきまえる碧葉は、その予感を無意識のうちに否定しようとしていた。
ある日の夕暮れ時、凛は書庫の窓から差し込む夕日に照らされる碧葉の横顔を見ていた。
金色の光が彼女の髪を染め、その横顔は、今まで見たどんな絵画よりも美しかった。その瞬間、凛の心に、稲妻のような衝撃が走った。
(…これは、恋だ)
彼が碧葉に抱いている感情が、姉上への家族愛でも、友人への親愛でもない、紛れもない「恋」であると自覚したのだ。胸の奥が甘く痛み、同時に、激しい情熱と不安が押し寄せた。
自分のこの感情を、誰かに打ち明けたい。
しかし、こんな身分違いの恋など、誰に理解されるだろうか。
凛の脳裏に浮かんだのは、ただ一人、姉である雪藍の顔だった。朱華との間に、困難な恋を乗り越えた姉上ならば、きっと自分の心を理解してくれるはずだ。
その日の夜。
凛は、朱華が政務に就いている間に、雪藍の私室を訪れた。
「姉上。少し、お話があるのですが…」
いつになく真剣な凛の表情に、雪藍はすぐに異変を察した。
「どうしたの、凛。いつもと様子が違うわね」
雪藍が優しく問いかけると、凛は俯きがちに、震える声で話し始めた。
「姉上…。実は、私…その…」
凛の口から出たのは、たった一人の侍女、碧葉の名前だった。
「…碧葉のことなのですが…」
雪藍は、弟の頬が、今まで見たことのないほど赤く染まっているのを見て、小さく息を呑んだ。
彼女の心の中で、昼間の凛の書庫での様子と、その視線の意味が、一つに繋がった瞬間だった。
(…まさか、凛が…)
雪藍は驚きながらも、弟の初めての恋の予感に、どこか微笑ましいような、そして少しだけ切ないような気持ちを抱いた。




