「凛と碧葉の恋物語」:第1部「淡い芽生えと視線の変化」
静月殿の書庫は、凛にとって最も落ち着ける場所の一つだった。壁一面を埋め尽くす歴史書や古文書の背表紙を眺めるのが好きで、時には日がな一日、その書物の世界に没頭することもあった。彼が一族再興の責務を負って以来、学問への傾倒はさらに深まり、その聡明さは朱華からも高く評価されている。
しかし、最近、凛が書庫を訪れる理由は、単に書物を求めるだけではなくなっていた。
書庫の管理を任されているのは、侍女の碧葉だ。
歳は雪藍と同じくらいで、二十歳になる彼女は、
常に落ち着いた物腰で、知的な雰囲気を纏っていた。背筋をすらりと伸ばし、几帳面に書物を整理する碧葉の姿は、まるで一幅の絵のようだった。
凛は、書物から顔を上げ、しばしばその横顔を、無意識のうちに目で追っていた。
ある日、凛が古い地図が挟み込まれた歴史書を手に取ると、碧葉が静かに隣にやってきた。
「若君。その書は、先代の帝が記されたものです。
珍しい異国の文化について詳細に書かれていますが、少々古く、頁が傷みやすいかと」
碧葉の声は、いつも穏やかで、まるで清らかな小川のせせらぎのようだった。その指先が、地図の破れかけた部分をそっと示し、修復の必要を伝えてくる。
凛は、彼女の細く白い指先が、古びた紙に触れるのを目で追った。その仕草一つ一つが、なぜか凛の胸を締め付ける。
「そうか…。では、大切に扱うとしよう」
凛は、彼女の顔を直接見ることができず、書物に視線を落としながら答えた。
数日後、再び書庫を訪れた凛は、碧葉が脚立に乗り、高い棚の書物を整理しているのを見かけた。その様子は、少し危なっかしく、凛は思わず声をかけた。
「碧葉。危ないではないか。もっと安全な台を使え」
「あら、若君。ご心配いただき、ありがとうございます。これくらいは、慣れておりますゆえ」
碧葉は、ふわりと微笑んだ。
その笑顔が、凛の目に、今まで見たことのないほど眩しく映った。彼は、碧葉が脚立から降りる際、思わずその腕を取ろうとしてしまい、はっと我に返って手を引っ込めた。
「…いや。…手伝おう」
凛は、ごまかすようにそう言って、碧葉が運ぼうとしていた重い書物の束を、無言で受け取った。碧葉は少し驚いた表情をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、若君。助かります」
その日以来、凛は書庫に足を運ぶ回数が増えた。
以前は歴史書に夢中だったが、今は、碧葉の姿を探すようになっていた。
ある時、若い侍女が書物の分類に手間取っているのを見た碧葉が、その侍女の傍らに寄り添い、優しく、しかし的確に指導していた。
「ここはこのように。焦らず、落ち着いて行えば大丈夫ですよ」
碧葉の穏やかな声と、迷うことなく指示を出す姿、そして困惑する侍女の頭を優しく撫でる仕草。
そのすべてが、凛の目に、この上なく美しく、そして頼もしく映った。
(…碧葉は、皆に優しい。誰にでも、分け隔てなく…)
その素晴らしい人柄に改めて感銘を受ける一方で、凛の胸には、ふと、チクリとした痛みが走った。
(…あの優しい笑顔が、あの温かい声が、もっと、私だけに向けられたなら…)
それが、微かな独占欲であることを、凛はまだ自覚していなかったが、彼の視線は、他の誰かと話す碧葉を捉えるたびに、無意識のうちに長く、熱を帯びるようになっていた。
雪藍は、そんな凛のわずかな変化に、ある日気づいた。
「凛。最近、やけに書庫に長居しているようだけれど、何か珍しい書物でも見つけたの?」
姉上の問いに、凛は一瞬、言葉に詰まった。
「いえ、その…ただ、古文書の整理が進んでおり、興味深いものが多くて…」
そう言って、凛は珍しく視線を逸らした。
その僅かな動揺を、雪藍は見逃さなかった。
(…凛が、何かを隠している…?)
雪藍は、朱華と恋仲になったばかりの頃の自分を思い出し、ふと、柔らかな笑みを浮かべた。
弟の成長を喜ぶような、しかしどこか含みのある、優しい笑みだった。
凛は、碧葉の朗らかな笑顔を見るたびに、胸の奥がきゅう、と締め付けられるのを感じていた。
それは、雪藍へのそれとは異なる、新しい、甘く、そして少しだけ切ない感情だった。
まだ、それが「恋」であるとは自覚していないが、
彼の心の中で、確かに何かが芽生え始めていた。
(…この優しい声を、もっと、近くで聞いていたい。この穏やかな笑顔を、もっと、独り占めできたら…)
凛は、書物を手にしながら、碧葉が近くを通るたびに、心臓が跳ねるのを感じていた。
彼の心は、今まで経験したことのない、甘く、そして抗いがたい引力に引き寄せられていた。




