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『妃殿下の新しい「弟子」と、焼きもち焼きの兄と弟』

第一章:実直な学徒、現る


その日、雪藍は宮廷の書庫にいた。皇太子の書斎とは違う、国中の知識が集められたその場所は、古い紙と墨の匂いに満ちた、彼女にとって心安らぐ空間だった。薬草に関する古い文献を調べていると、ふと、背後で困惑のため息が聞こえた。


振り返ると、そこにいたのは、新しく書庫の管理を任されたという、若く真面目そうな文官だった。名を、李月りげつという。彼は、雪藍の存在に気づくと、慌てて深く礼をした。


「も、申し訳ございません、妃殿下!お寛ぎのところを…」


「いいえ。何か、お困りですか?」


雪藍が優しく微笑みかけると、李月は顔を赤らめながら、手にしていた難解な文献を差し出した。


「…この一節の解読が、どうしても…。古の薬草の名が、どうしても分からず…」


雪藍がその頁を覗き込むと、その瞳が専門家としての輝きを帯びた。


「まあ、これは…。とても珍しい記述ですわね。この花は、現代の名とは違って…」


彼女は、淀みなくその薬草の由来と特性を語り始めた。李月りげつは、呆然と、しかし次第に尊敬と憧れの念で、その横顔を見つめる。


「素晴らしい…!妃殿下は、なんと聡明な方だ!まるで、歩く知恵の泉でいらっしゃいます!」


純粋な学問的好奇心から、彼の瞳は子供のようにきらきらと輝いていた。雪藍もまた、自らの専門分野を心から理解してくれる相手に出会えたことが嬉しくて、花が綻ぶように微笑み返した。


その時、二人は気づいていなかった。

書庫の入り口から、その光景――「美しい妃に、若い美男が熱烈な視線を送り、妃もまた、嬉しそうに微笑み返している」という場面を、二人の男が、氷の彫像のように固まって見つめていたことに。


朱華の瞳が、すっと細められる。

凛の灰色の瞳が、絶対零度の光を宿す。

二人の心に、小さな、しかし確かな疑惑の種が、静かに植え付けられた瞬間だった。


第二章:兄の牽制と、弟の過剰警護


あの日以来、李月は雪藍の深い知識に完全に心酔し、「教えを乞いたい」という名目で、頻繁に静月殿の香室を訪れるようになった。そして、それに伴い、香室には奇妙な現象が起き始めていた。


ある日の午後。雪藍と李月が香木の見本を前に議論していると、音もなく朱華が現れた。


「おお、李月ではないか。ちょうど良かった。急ぎの仕事だ。我が国の交易の歴史について、日の出までに報告書をまとめてくれ。期待しているぞ」


皇太子の、完璧に優雅な笑み。しかし、その瞳は一切笑っていなかった。李月は、その無茶な命令に顔を青くして、よろろと退室していった。


また、ある日のこと。

雪藍が一人で書簡の整理をしていると、ふとした拍子に紙で指先をほんの少しだけ切ってしまった。


「きゃっ…」


小さな血が滲む。その瞬間、部屋の隅で控えていた凛が、音もなく雪藍の隣に移動していた。


「姉上。今、何か…?」


彼の灰色の瞳が、雪藍の指先の血の雫にピタリと焦点を合わせる。


「まあ、凛。驚かせないでくださいな。ただ、紙で少し指を切っただけです。大げさですよ」


凛は、雪藍の指を、まるで国宝でも扱うかのように、そっと両手で包み込んだ。表情は無だが、その瞳は恐ろしいほど真剣だった。


「…大げさなどと。姉上の流されたこの一滴の血は、この国の金銀珠玉すべてを合わせても償えぬほどの価値があります。この紙…及び、この紙を作った者、関わった者すべてを、万死に値する罪人として捕縛すべきかと」


あまりの物言いに、雪藍は思わず笑ってしまう。


「ふふっ…ありがとう、凛。でも、私が大丈夫だと言ったら、大丈夫なのです。ね?」

「…御意に」


凛は渋々といった様子で引き下がったが、その後、その一枚の書簡だけを、まるで親の仇でも見るかのような冷たい目で見つめ続けていた。


(朱華様も凛も、どうされたのかしら。最近、よく香室にいらっしゃるわね。李月殿とも、仲良くなりたいのかもしれないわ)


雪藍は、ほんわかと、そう思っていた。

一方、李月は、日に日に増していく二方面からのプレッシャーに、自らの寿命が縮んでいくのを、確かに感じていた。


第三章:疑惑の贈り物と、氷の尋問


事件が起きたのは、その数日後のことだった。

静月殿の庭園で、李月が雪藍を呼び止めた。彼は、深々と頭を下げると、小さな桐の箱を差し出す。


「妃殿下!これは、私の感謝のしるしです!どうか、お受け取りください!」


箱の中にあったのは、彼が自ら野山を探し回り見つけたという、非常に珍しい薬草の押し花だった。


「学徒として、妃殿下の深い知識への、心からの敬意のしるしにございます!」


しかし、その光景を目撃してしまった二人の男には、全く違うものに見えていた。

「若い男が、妃に、花を贈っている」――それは、紛れもない恋の告白以外の何物でもなかった。


雪藍が「まあ、素敵ですわ」と、その純粋な贈り物に微笑んで部屋に戻った後。

庭に残された哀れな子羊は、二頭の猛獣によって、完全に退路を断かれていた。


「李月殿」


朱華の声は、穏やかだったが、その響きは冬の湖面のように冷たい。


「君は、私の妃に、随分と『敬意』をお持ちのようだ…?」


凛は、何も言わない。ただ、李月の背後に音もなく立ち、その灰色の瞳で、彼の首筋のあたりを、じっと見つめているだけだった。


「ひっ…!ち、違います!私は、ただ、妃殿下のその、ご聡明さに…!」


哀れな学徒が、必死に弁明している、まさにその時だった。

忘れ物をした雪藍が、ひょっこりと庭に戻ってきた。

彼女が見たのは、敬愛する夫と、可愛い弟が、哀れなほど震えている李月を尋問している、という奇怪な光景。


雪藍は、しばし呆然と三人を交互に見つめていたが、やがて、その口元に、すべてを察した、呆れと、慈しみに満ちた、小さな笑みが浮かんだ。


(…やれやれ)


第四章:焼きもちへのお仕置きと、甘い褒美


その夜。静月殿の寝所。

朱華は、まだ少し不機嫌そうに拗ねて、窓の外を眺めていた。

そんな彼の背後から、雪藍はそっと寄り添い、悪戯っぽく囁いた。


「朱華様。もしかして…焼きもちを、焼いてくださいましたか?」


「…違う」


即答だった。しかし、その耳がほんのり赤い。


雪藍は、その大きな背中に腕を回し、優しく問い詰める。


「では、なぜ、あんなに李月殿をいじめていらしたのですか?」


「…いじめてなどいない」


強がる朱華だったが、やがて、観念したように、ぽつりと言った。


「…お前が、俺の知らぬ男に、あのような優しい顔で笑うのが…面白くなかっただけだ」


その、子供のような本音。雪藍は、愛おしさで胸がいっぱいになった。

彼女は、彼の背中にそっと頬を寄せると、「こちらへ」と、彼を書見台の前の椅子へと優しく導いた。

そして、彼の心を鎮める特別な香をそっと焚くと、その硬くなった肩に、柔らかな指を置いた。


「…あなた様が、一番です」


囁きながら、雪藍は、凝り固まった彼の肩を、ゆっくりと、しかし確かな手つきで揉み解していく。

香の煙と、彼女の指先から伝わる温もりが、朱華の心のささくれを、優しく溶かしていく。

彼が心地よさに身を委ねたのを見計らい、雪藍は、その耳元に、とろけるように甘い声で、言葉を続けた。


「わたくしの知識は、求める者があれば与えましょう。けれど、この手も、この唇も、この心も…そして、この夜も。すべては、あなた様だけのもの」


その言葉は、朱華の心の最後の壁を、完全に溶かし去った。

彼の嫉妬は、もはや跡形もない。彼は、椅子から立ち上がると、雪藍の手を取り、その身体を強く、激しく抱きしめた。


「…その言葉、忘れるなよ」


その声は、もう拗ねてはいなかった。ただ、どうしようもないほどの愛情と、独占欲に満たされている。

彼は、雪藍の唇を、まるで答えを求めるかのように、深く、甘く、塞いだ。


それは、嫉妬というスパイスが効いた、これまでで一番、甘くて幸せな口づけだった。


第五章:不憫な学者と、皇太子の完敗


翌日の午後。

雪藍は、廊下でばったりと李月に出会った。

彼は、まだ少し顔色が悪い。


「李月殿。先日は、家の者が大変失礼をしました。

これは、お詫びのしるしです」


そう言って、彼女が差し出したのは、「精神を安定させ、集中力を高める」という、特別な香袋だった。

李月は、その女神のような優しさに、涙を流さんばかりに感激し、深々と頭を下げた。


その日の夕刻。朱華が回廊を歩いていると、向かいから、晴れやかな顔をした李月がやってきた。

朱華が「(また雪藍に用か…?)」と、じろりとにらみを利かせた、その瞬間。

李月から漂ってきたのは、紛れもなく、昨夜、自分がその香りに骨抜きにされたばかりの、あの特別な香りだった。


朱華は、すべてを悟り、その場で固まった。


(…雪藍、俺を癒やしたのと同じ香を、あの男に…!しかも、俺の焼きもちの詫びとして、だと!?)


李月は、香の効果か、あるいは朱華の殺気に全く気づかず、「これは良い香りですなぁ」と晴れやかに一礼して去っていく。

一人、回廊に残された朱華は、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。


「…完敗だ」


そして、愛しい妻の、一枚上手な「お仕置き」に、たまらないというように、声を殺して笑うしかなかった。

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