「偽りの罪、真実の絆」第三部 - 王の裁き -
第一章:諸刃の剣
朱華の書斎は、夜明けまで灯りが消えることはなかった。解読された棋譜は、魏公の罪を暴く完璧な証拠。だが同時に、それは皇太子である朱華にとって、諸刃の剣でもあった。
「これを、そのまま父上に奏上することはできぬ」
朱華は、苦渋に満ちた声で言った。
「これは暗号だ。魏公は『皇太子が私を陥おとしいれるために捏造した』と必ず言うだろう。父上は、長年信頼してきた重臣と、実の息子、どちらを信じるかという、究極の選択を迫られることになる。それは、国を二分しかねない危険な賭けだ」
凛は、悔しさに唇を噛む。
ようやく掴んだ真実への道が、あまりにも険しいことに、彼は言葉を失っていた。
沈黙が支配する書斎で、雪藍が静かに口を開いた。
「…でしたら、舞台を整えましょう」
彼女の瑠璃色の瞳には、怜悧な光が宿っていた。
「魏公自身に、その仮面を剥がさせるのです。彼が最も油断し、そして最も誇り高く振る舞う、最高の舞台の上で」
雪藍が指し示したのは、数日後に迫った「建国記念式典」。
国の全重臣が集う、最も格式高い儀式。その席で、魏公は重要な役目を担うことになっていた。
雪藍は、朱華が秘府を調査する中で見つけた断片的な記録や、凛が季公の一族を追う中で得た噂話の欠片を繋ぎ合わせ、自身の薬草に関する膨大な知識と照合することで、二十年前のある政敵の不審死に月影草が関与していた可能性、そしてその背後に魏公の影が潜んでいるという仮説に辿り着いていた。
その香りは、魏公にとって「成功」の香りであると同時に、二度と誰にも知られてはならない「深淵の罪」の象徴でもあったのだ。
「棋譜にあった、凛の父上が残された言葉…『月影草の毒』。この香りを、わたくしが儀式で焚きます。ごく微量、毒性などない、ただ香りを再現するだけ。
ですが、己の罪を知る者にとっては、その香りは死神の吐息に感じられるはず」
それは、魏公の心の奥底に眠る罪悪感を、白日の下に引きずり出すための、あまりにも大胆で危険な罠だった。
その夜、朱華は一人、父である皇上の寝所を訪れた。
彼は、皇太子としてではなく、ただ一人の息子として、父にすべてを打ち明け、この危険な賭けへの許しを請うた。皇上は、息子が差し出した解読文に静かに目を通した後、ただ一言だけ、告げた。
「…失敗は許されぬぞ」
それは、父が息子を信じた、最も重い言葉だった。
第二章:嵐の前の静けさ
建国記念式典を明日に控えた夜。
静月殿の空気は、張り詰めていた。
雪藍は、月明かりの下、ただ一人、明日の儀式で使う香の最後の調合を行っていた。
それは、国の運命と、愛する者たちの未来を乗せた、祈りの香り。
その彼女の背後で、凛が静かに剣の手入れをしている。石突が床を打つ、硬質な音だけが響く。
彼の灰色の瞳は、明日斬るべき悪を見据え、研ぎ澄まされていた。
書斎では、朱華が独り、棋譜と向き合っていた。
凛の父の友、季公の無念、そしてこれから自らが下す裁きの重さ。その全てを、次代の王として背負う覚悟を決めていた。
三者三様の、静かな決意。言葉はなくとも、彼らの魂は、固く、強く結びついていた。
第三章:真実の香り
建国記念式典の広間は、荘厳そうごんな熱気に満ちていた。皇上が玉座に座し、居並ぶ百官の最前列には、太師・魏公が、いかにも忠臣といった穏やかな顔で控えている。
儀式が滞りなく進み、場を清めるための「献香の儀」が始まった。
純白の衣を纏った雪藍が、皇太子妃として、また献香の大役を任された香女として、静かに祭壇へと進み出る。彼女が、白磁の香炉に銀の匙で香木をくべた、その瞬間。
ふわり、と広間に漂い始めたのは、誰も嗅いだことのない、清らかで、しかし心の奥底を微かにざわめかせる、不思議な香りだった。
それは、解読された告発文に記されていた、毒の基となる「月影草」の香りを、雪藍が完璧に再現したもの。
その香りを吸い込んだ瞬間、魏公の表情が、ほんの一瞬、凍り付いた。瞳孔どうこうが開き、血の気が引いたその顔に浮かんだのは、長年隠し通してきた罪人の、純粋な「恐怖」。
その僅かな動揺を、朱華と凛、そして玉座の上の皇上は、決して見逃さなかった。
魏公は、震える手で膝の上の扇子を握りしめた。
その香りは、彼が二十年前、まだ若き官僚であった頃、政敵を排除するために密かに用いた、あの「月影草」の毒の残り香を思い起こさせたのだ。彼の脳裏に、政敵が苦しみもがき死んでいく姿が、鮮烈にフラッシュバックした。
朱華が、静かに立ち上がった。
「太師・魏公。その香り、何か、思い当たる節がおありかな?」
その声は、嵐の前の静けさのように、広間に響き渡った。
第四章:王の裁き
広間が、どよめきに包まれる。
魏公は、即座にいつもの穏やかな仮面を被り直し、悲痛な表情で皇上へとひざまずいた。
「陛下。皇太子殿下は、一体何を仰せでございましょう。この香りは、いかにも雅やかでございますが…この魏公には、何のゆかりがあるのか、皆目見当もつきませぬ」
彼は、とぼけきった表情で、しかしその瞳の奥には、わずかな動揺を滲ませながら、あくまでしらを切り通そうとする。長年培ってきた経験と、役者さながらの演技力で、この場を切り抜けようと足掻いていた。
しかし、朱華は容赦なく追い詰める。
「ほう、見当がつかぬ、と?では、これならばどうだ」
朱華は、凛の母の硯箱から見つかった棋譜と、それを解読した結果としての告発内容を静かに広げた。
「これは、亡き尚書令・季公が命懸けで残した、真実の棋譜。
そして、この棋譜が貴殿の書斎の壷の底に隠されていると指し示す、凛の父の無実を証す真の書簡(東域密約書と鎮西公からの返書)。…この盤上に、貴殿の罪のすべてが記されている!」
魏公は棋譜と告発文を一瞥し、嘲笑う。
「囲碁の記録が、一体何の証拠になると…」
その言葉を遮り、雪藍が、凛とした声で暗号の仕組みを解き明かしていく。不自然な一手、特定の文字を指し示す石、そして、偽りの書簡の文字を巧みに利用して紡がれた、真実の文章。彼女の怜悧な声が、少しずつ、しかし確実に、魏公の鉄壁の仮面を剥がしていく。
そして、朱華は、解読された告発内容を、広間に響き渡る声で読み上げた。
「季公は語る!『私は、友であるはずの魏公に裏切られたことを知った。
凛の父にかけられた謀反の罪は、すべて偽りである。その罪状は、魏公が凛の父の書斎から奪い、内容を書き換えた『東域密約書』と『鎮西公からの返書』によって捏造されたものだ。
凛の父の無実を証明する、本当の書簡は、魏公の書斎にある古い陶器の壷の底に隠されている。
魏公の野心は留まるところを知らず、今度は『月影草』の毒を用いて、皇太子殿下の命を狙っている。
皇太子よ、どうか慎重に行動されよ。』と!」
その告発内容が読み上げられた瞬間、魏公の顔から血の気が完全に失われた。
彼の身体は小刻みに震え、もはや反論の言葉を失っていた。居並ぶ百官の間にも、ざわめきを超えた、恐怖と戦慄の空気が広がっていく。
そして、最後に、凛が進み出た。
彼は、憎しみではなく、ただ、悲しみを湛えた瞳で、魏公を見つめた。
「魏公殿。あなたは、私の父の、ただ一人の友だったはずだ。…なぜ、裏切ったのですか」
その、魂からの問いかけ。魏公の瞳に、一瞬だけ、遠い昔の友と笑いながら碁を打つ光景が過った。
だが、それはすぐに、自らが選んだ野心の炎によって、無慈悲に焼き尽くされた。
自らが陥れたはずの家の、その忘れ形見が、すべての真実を携えて、目の前に立っている。
その事実が、魏公の心の最後の壁を、粉々に打ち砕いた。
「…黙れ」
魏公の顔から、穏やかな賢人の仮面が剥がれ落ちる。そこに現れたのは、嫉妬と、満たされぬ野心に歪んだ、老人の素顔だった。
「黙れ、黙れ、黙れぇ!理想ばかりを語る青臭い者どもが!…そうだ、お前たちのようにな!」
彼の憎悪に満ちた視線が、凛、そして朱華を射抜く。
「かつては凛の父が、そしてその友の季公が!清廉なだけで国の闇を知らず、ただ美しい言葉を並べては我らの行く手を阻んだ!…私は、若い頃、貴様らの父のように、理想ばかりを追い求めて挫折した。清廉さだけではこの宮廷の闇は動かせぬと悟ったのだ!だからこそ、俺がこの国を真に導くしかなかったのだ!そして朱華…貴様こそが、その青臭い思想を継ぐ者だ!」
魏公の狂気の叫びが、広間に響き渡る。
「今の皇上は、優しすぎる。その慈悲深さが、国を弱くするのだ!そして、その思想を継ぐ貴様も同じだ!その甘さが、いずれこの国を滅ぼす!だから、儂が正さねばならなかったのだ!」
彼は、憎悪に満ちた目で朱華を睨みつけた。
「儂が望んだのは、玉座ではない。玉座を操り、この国を真に強くするための、絶対的な力だ!そのためには、凛の父のような清廉な理想家は邪魔だった!奴を陥れるのは、計画の第一段階に過ぎぬ!
そうだ、奴の書斎に忍び込み、その集めていた真の証拠たる『東域密約書』と『鎮西公からの返書』を奪い、内容を巧みに改竄して謀反の証拠を完璧に作り上げたのだ!貴様らを追い詰めたのは全て儂だ!」
そして、魏公は続ける。
その瞳には、未遂に終わった自らの完璧な計画への、歪んだ陶酔が浮かんでいた。
「あの愚かな季公は、余計なことまで嗅ぎつけおったわ。凛の父の無実だけでなく、俺が未来に成そうとしていたことまでな。そうだ、棋譜に記されていた通り、次はお前の番だったのだ、朱華!
あの『月影草』の香で、貴様の心を静かに蝕み、病によって皇太子の座から引きずり降ろす!
それこそが、儂の計画の第二段階だった!だが、貴様らが…貴様らのような小童どもが、儂の未来(計画)を、実行される前に暴いてしまったのだ!」
ついに、すべての罪を自らの口で認め、偽造された証拠品の出所まで明かした魏公。
その顔には、破滅を前にした者の、乾いた笑いが浮かんでいた。
自分が弄もてあそんだはずの駒たち――
朱華、雪藍、そして凛の、揺るぎない絆の前に、
己の完璧な計画が崩れ去ったことを、彼は悟ったのだ。
広間は、水を打ったように静まり返っている。
魏公の独白だけが、己の罪の重さを証明するかように、虚しく響き渡る。
やがて、その狂気の叫びが途絶え、すべてを言い終えた彼の顔から、すっと力が抜けた。
勝ち誇った表情は消え、ただ、すべてを失った男の、空虚な顔だけが残った。
その完璧な静寂を破ったのは、それまで玉座で微動だにしなかった、皇上の声だった。
その声は、嵐のように激しくはない。
だが、万雷ばんらいの怒りよりも深く、そして重い、絶対的な王の響きを持っていた。
「…捕らえよ」
その一言だけが、広間に響き渡る。
駆けつけた近衛兵たちが、もはや抵抗する意思もない魏公の両腕を掴み、引き立てていく。
冷たい足音だけが、後に残った。
それは、彼の完璧な計画が、三人の絆の前に崩れ去った、断末魔の音だった。
第五章:新しい朝
魏公の乱は、こうして幕を閉じた。
数日後、宮廷の最も荘厳な大広間は、嵐が過ぎ去った後のような、清浄な静寂に包まれていた。
皇上を筆頭に、居並ぶ百官。その中心に、凛は、朱華と雪藍のすぐ後ろに控えるようにして、静かに立っていた。
やがて、皇上がゆっくりと立ち上がり、その威厳に満ちた声が、広間に響き渡った。
「――詔を下す」
その声は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げていた。
皇上は、過去の裁きが魏公の陰謀による誤りであったことを公おおやけに認め、凛の一族の罪を完全に赦免し、その名誉を回復することを宣言した。さらに、今回の乱を未然に防いだ凛の功績を称え、彼を皇太子・朱華の正式な義弟として認め、一族の再興を許す、と。
凛は、玉座からの言葉を、ただまっすぐに受け止めていた。その灰色の瞳には、もはや怒りも、悲しみも、復讐の炎も宿ってはいない。ただ、長い冬の終わりを告げる、静かで澄み切った光だけが満ちていた。
その日の夕刻、一羽の鳥が、都を離れた古い屋敷へと文を届けた。文を読んだ季・梨安き・りあんは、
父の墓前に静かにひざまずくと、懐から一枚の古い棋譜を取り出し、清めの炎へとそっとくべた。
「お父様。…あなたの戦いは、終わりました。あなたの友の無念は、晴らされました。…もう、何も思い残すことはありません」
炎に照らされたその横顔には、もう「香の鎧」は必要なかった。
ただ、すべてから解放された、一人の女性の、穏やかな涙だけが光っていた。
その翌日の午後。
静月殿の庭には、雪藍の手によって、凛の両親のためのささやかな祭壇がしつらえられていた。
真新しい位牌に、彼女が今朝摘んだばかりの白菊と、清らかな香が供えられている。
凛は、その前に一人、静かにひざまずいていた。
彼は、両親の位牌を見つめ、誰に聞かせるでもなく、そっと呟いた。
「父上、母上。…ただいま、戻りました」
長かった旅が、終わったのだ。
彼の脳裏に、遠い日の母の記憶が蘇る。雷の音に怯える幼い自分に、母は優しく微笑み、あの硯箱を見せた。
『今はまだ、お話しできません。でも、覚えていて、凛。いつか、あなたが大きくなって、本当のことが知りたくなった時に、この箱がきっと、あなたを守ってくれます』と。
…母上、あなたの最後の祈りは、確かに、俺を守ってくれました。
彼は、続ける。
「お二人の名は、雪のように清められました。そして…俺は、もう一人ではありませぬ。守るべき姉と、進むべき道を示す兄が…新しい家族が、できました。だから、もう、心配なさらないでください」
その横顔は、もはや復讐に囚われた孤独な若獅子のものではなかった。
過去のすべてを受け入れ、未来を見据える、一人の若者の、穏やかな顔をしていた。
やがて彼は立ち上がると、少し離れた場所から自分を見守っていた、朱華と雪藍の方へと向き直る。
そして、一年という歳月の中で、初めて見せる、心の底からの、一点の曇りもない笑顔で、深く、深く、頭を下げた。
「兄上、姉上。…俺に、本当の居場所をくれて、本当に、ありがとうございました」
朱華は「当たり前のことをしたまでだ」と、照れ隠しのようにそっぽを向き、その大きな手で、少しだけ乱暴に、しかしどこまでも優しく、凛の濡羽色の髪をわしゃわしゃと掻き撫ぜた。
雪藍は、溢れる涙を隠そうともせず、ただ、幸せそうに微笑んでいた。
新しい朝の光が、静月殿の庭を優しく照らし出す。
そこに立つ三つの影は、血の繋がりを超えた、誰にも壊すことのできない、「本当の家族」の姿をしていた。
その夜。
朱華と雪藍は、静月殿の月見台で、ようやく二人きりの時間を過ごしていた。
腕の中で、雪藍が安堵のため息と共に、夫の胸にそっと額を寄せる。
「…凛、本当に良かった。あの子の、今日の笑顔を、私は生涯忘れません」
「ああ。あいつは、俺たちの自慢の弟だ」
朱華は、雪藍の髪に口づけを落とす。
「だが、それもすべて、お前がいたからだ、雪藍。お前の優しさが、あいつの氷を溶かし、お前の聡明さが、俺たちの道を示してくれた。…お前がいなければ、俺は王になどなれん」
その、あまりに素直な言葉に、雪藍は顔を上げて、夫の瞳を見つめた。
「いいえ。あなた様が、凛を、そしてわたくしを、信じ抜いてくださったからです。あなたのその強さと器こそが、わたくしたちの光でした」
二人は、どちらからともなく、そっと唇を重ねる。
それは、これまでのどんな口づけとも違う。情欲の激しさでも、慰めの優しさでもない。
共に戦い、すべてを乗り越えた、唯一無二のパートナーだけが分かち合える、どこまでも穏やかで、満ち足りた、魂の口づけだった。
唇が離れた後、朱華は、雪藍の手を固く握りしめた。
「偽りの罪にまつわる物語は、終わった」
雪藍もまた、その大きな手を、優しく握り返す。
「はい。…そして、ここからが、わたくしたちの、真実の絆の物語の始まりですね」
二人は微笑み合い、夜空に浮かぶ、美しい満月を見上げた。
その光は、新しい朝を迎えた宮廷と、固く結び固いた三つの魂を、いつまでも、いつまでも、優しく照らし続けていた。




