「偽りの罪、真実の絆」第二部 - 友の裏切り -
第一章:三本の矢
父の友が残した悲痛なメッセージを胸に、凛と雪藍、そして朱華は、皇太子の書斎に集った。
それは、国の未来を左右する、秘密の作戦会議の始まりだった。壁に広げられた都の地図と、山と積まれた古い記録文書。三人の顔には、これから踏み込む闇の深さを前にした、覚悟の色が浮かんでいた。
「記録は膨大だ。そして、過去の裁きを覆すことは、皇室そのものへの信頼を揺るがしかねない。…危険な賭けになる」
朱華は、皇太子として、まずそのリスクを告げた。
彼の役割は、宮廷の巨大な記録庫「秘府」に眠る、当時の事件記録を洗い直すこと。公文書の中に潜む、僅かな歪みを探し出すのだ。
「俺は、亡き尚書令・季公の一族の行方を探します」
凛が、低い声で言った。
父上が信頼を寄せた親友、そしてこの棋譜に関わるかもしれない人物。
事件後、彼らは歴史の表舞台から姿を消している。
その足跡を辿るのは、彼が「影」として培ってきた密偵の技術が最も活きる領域だった。
「私は…」
雪藍は、二人の男たちを見つめ、静かに、しかし芯の通った声で言った。
「私が、この棋譜の真の意味を解き明かします。凛の母上が、何を私たちに伝えようとしたのか…。必ず、その声を聞き届けます」
彼女の視線は、凛が持ち帰った、古びた棋譜に注がれていた。
それは,三者三様の特技を活かし、宮廷という巨大な闇に向けて放たれた、三本の矢だった。
朱華が地図の上に置いた手に、凛が、そして雪藍が、そっと自らの手を重ねる。
言葉はない。ただ、血よりも濃い、魂の誓いだけが、そこに交わされた。
第二章:閉ざされた心と、香の鎧
凛の調査により、季公には、事件後に都を離れ、今は人里離れた古い屋敷で暮らす一人娘がいることが判明した。名を、季・梨安。三人は、その屋敷を訪れた。
朽ちかけた門を抜けた先で彼らを迎えたのは、歳月が止まったかのような静寂と、父の喪服を今も纏う、
凍てついた瞳の梨安だった。
「…皇族の方が、今更どのようなご用ですの。父も、友も、すべてを奪っておきながら…」
朱華に向けられたその言葉は、鋭い氷の刃となって突き刺さる。梨安の心は、父を奪った皇室への深い絶望と不信によって、固く閉ざされていた。朱華も凛も、彼女の心の壁を前に、言葉を失う。
その時、雪藍が、そっと一歩前に出た。
彼女は事件のことには一切触れず、ただ、部屋に満ちる香りに向かって、静かに語りかけた。
「…心を鎮める白檀に、記憶を遠ざけるための竜脳…。そして、涙を乾かすための、強い龍涎香。…これは、悲しみを忘れるための香りですね。けれど、とても、寂しい香りです。まるで、心が喜びを感じることさえ、自らに禁じているかのようです…」
それは、香女にしかできぬ、魂への語りかけだった。梨安の瞳が、初めて大きく見開かれ、その氷の仮面に、ひびが入る。父の死後、誰一人として理解しえなかった、自らが纏う「香の鎧」の意味を、目の前の女性は、一瞬にして見抜いたのだ。梨安の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
第三章:友が残した、決定的な「棋譜」
梨安は、泣きながら、父が死の直前に残したという遺品を、三人に託した。
それは、父の自筆で書かれた、最後の希望だった。
「父が亡くなる直前、『魏公にすべてを託した。彼は真実を公にしてくれるはずだ』と…。そして、この棋譜を…」
梨安が差し出したのは、まさしく凛の母の硯箱から見つかったものと同じ、季公と魏公の最後の対局を記した棋譜だった。
凛の母は、夫である凛の父が季公と密かに情報を共有していることを知っており、万が一の際にはこの棋譜が重要な証拠となることを理解していた。
そのため、季公から直接、あるいは夫を通じて、この棋譜の写しと、月影草の押し花を預かっていたのだ。
季公は、凛の父の無実を信じ、彼の親友として、独自に真実を追っていた。その中で、魏公こそが今回の陰謀の黒幕であることに気づいたのだ。長年の友人である魏公の裏切りを知った季公は、絶望の淵に立たされた。
しかし、彼はそれでも、かつての友である魏公の中に、まだわずかな正義が残っていることを信じたかった。
そして、魏公の書斎を訪れた季公は、魏公自身が自らの完璧な勝利を誇示するかのように、あるいは、友が真実に迫っていることを見抜いた上で、その絶望を深めるために、奪い取った書簡を隠した「古き陶器の壷」の場所を、あえて語るのを聞いていたのだ。それは、友の最後の希望すらも己の支配下に置いたことを見せつけ、季公の魂を打ち砕くための、魏公の冷酷な一手であった。
真実がいつか白日の下に晒されることを願い、自らが命懸けで集めた真実の全てを、この暗号化された棋譜に込め、直接彼に渡していたのだ。
書斎に戻った三人の間に、重い沈黙が落ちた。
味方だと信じていたはずの魏公の名。
だが、彼こそが事件で最大の利益を得ている。
凛の父が失脚し処刑されたことで、魏公は中書令としてその権力を盤石なものとし、さらに凛の父の治めていた広大な領地までもが彼の管理下に置かれた。
今や皇上の信頼を得て皇太子を補佐する要職を遂行していた。その途方もない権力と名声、そして財産こそが、彼の得た「最大の利益」だった。
朱華は、苦渋に満ちた声で結論を口にした。
「…季公は、裏切られたのだ。最も信頼していた友に、命懸けで集めた証拠を渡してしまった。そして魏公は、その証拠を利用して、凛の父の罪を完璧に捏造し、友であった季公をも、口封じのために死に追いやったのだ…」
そして、朱華は、目の前にある季公の棋譜を、悲痛な面持ちで見つめた。
「…魏公は、季公が託した証拠を隠滅せず、自らの書斎に封じ込めていたのだ。それは、友の最後の抵抗すらも己の手の内に収めた、完璧な勝利の証であり、
同時に、もしもの時のための『切り札』でもあった。季公の最後の希望を嘲笑い、その魂すらも支配下に置く、魏公の歪んだ優越感がそこにあった…」
そのあまりにも非道な裏切りに、凛の拳は血が滲むほど固く握りしめられた。三人の敵は、宮廷の誰もが「清廉な賢人」と信じて疑わぬ、巨大な権力者となったのだ。
その日の夕刻、宮廷に一つの報せが駆け巡る。
皇上の勅命により、中書令・魏公が、皇太子を補佐する最高位の官職である太師という、さらに重要な役に任命された、と。
朱華は、この報せに眉を寄せた。
(…父上は、この私に、どこまで試練を与えられるおつもりなのだ…)
しかし、その心中には、父である皇上の深い意図を読み取ろうとする、次代の王としての覚悟があった。
皇上は、息子が魏公という巨悪にどう立ち向かい、
真実を暴くかを見極め、自らの王としての資質を示す機会を与えているのだと。
それは、朱華に対する、魏公からの静かなる宣戦布告であると同時に、皇上からの、静かなる期待の表れでもあった。
「私は、皇上からの信頼も厚い。お前ごときに、この牙城が崩せるかな?」と。
第四章:影の圧力と、家族の夜
その日から、三人を襲う圧力が、じわりと強まっていった。それは、決して表沙汰にならぬ、巧妙で、陰湿な妨害だった。凛が任務中に、原因不明の馬の暴走に巻きまれ、危うく命を落しかける。
また、彼の集めた情報が、些細な手違いに見せかけて改ざんされ、偽の情報へとすり替えられることもあった。真実を追えば追うほど、巧妙に仕組まれた罠と偽情報が、彼の行く手を阻んだ。
雪藍の元には、差出人不明の美しい花籠が届く。だが、その中には一本だけ、彼女の知識をもってのみ毒と分かる、「死」を暗示する花が、巧みに混ぜ込まれていた。彼女が魏公の関与を疑い、過去の事件記録を再度精査しようとすると、その資料は「誤って焼却された」と報告され、閲覧を拒否された。不審な死を遂げた者たちの記録は、ことごとくが魏公派の官僚たちによって隠蔽されていた。
朱華が提出する政策案は、魏公派の官僚たちによって、ことごとく些細な理由で差し戻され、彼の宮廷内での立場が少しずつ弱められていく。魏公は、朱華の味方であるかのように振る舞いながら、陰で巧妙な情報操作を行い、朱華と他の官僚たちの間に不信の種を蒔いていた。
見えざる敵からの、じわじわと真綿で首を絞めるような心理戦。
三人の間にも、焦燥と疑念が生まれかけた。
その夜、雪藍は、黙り込む二人のために、特別な茶を淹れた。
それは、心を安らげるだけでなく、思考を明晰にする効果のある、彼女だけの特別な調合だった。
「…わたくしたちは、闇の中にいるのではありません」
彼女は、静かに、しかし力強く言った。
「一条の光を見つけたのです。今はまだ、その光が細く、頼りないだけ。けれど、三人でこの光を辿れば、必ず夜明けは来ます」
その言葉に、朱華と凛は、はっと顔を上げた。
そうだ、目的を見失ってはいけない。
復讐心に駆られても、恐怖に怯えても、道は開けない。
その夜、三人は久しぶりに、ただの「家族」として、静かな時間を過ごした。雪藍の淹れた茶の香りが、
彼らの絆を、再び固く結びつけていた。
第五章:解読された真実の告発
魏公からの見えざる圧力は日増に強まり、三人の調査は完全に行き詰まっていた。
焦燥が影のように静月殿に落ちる。
朱華の眉間には深い皺が刻まれ、凛の口数はさらに少なくなり、雪藍が焚く香だけが、かろうじて三人の心を繋ぎとめているかのようだった。
だが、彼らの手元には、凛の母と、季公がそれぞれ残した、二つの「棋譜」があった。朱華の書斎に、再び三人が集う。燭台の灯りが、盤上の無数の石の記録を静かに照らし出していた。
一見、それはごく普通の対局記録。だが、名手である朱華はその流れに奇妙な違和感を覚え、凛は父が決して打たぬはずの手を指摘し、そして雪藍が、その不自然な着手の連続に、ある「模様」を見出した。
「…これは、対局の流れを追うものではありません。この紙全体を、一枚の地図として見るのです」
雪藍の言葉が、すべての謎を解く鍵となった。
この棋譜に記された「不自然な一手」こそが、
すべての仕掛けだった。
一手目の不自然な石の位置が、特定の文字を指し示し、それがまるで偽りの手書きの文章のように見えながらも、実は真実の告発文を紡ぎ出しているのだ。
三本の矢が、一つの的を射るかのように。
それぞれの魂が共鳴し、一つの真実を浮かび上がらせていく。朱華が、皇太子として学んだ帝王学と戦略知識で、陰謀の全体像を解き明かす。
凛が、父の癖や思考を思い出し、「父上なら、この言葉の次には、こう続けるはずだ」と、直感で言葉の繋がりを指摘する。
そして雪藍が、香の調合で培った驚異的な集中力で、一見バラバラに見える言葉の連なりから、意味の通る文章を紡ぎ出していくのだ。
夜を徹しての解読の末、ついに三人は、その全文を写し終えた。
そこに浮かび上がったのは――偽りの書簡の文字を巧みに利用して綴られた、真実の告発文だったのである。
『私は、友であるはずの魏公に裏切られたことを知った。
凛の父にかけられた謀反の罪は、すべて偽りである。その罪状は、魏公が凛の父の書斎から奪い、内容を書き換えた『東域密約書』と『鎮西公からの返書』によって捏造されたものだ。
凛の父の無実を証明する、本当の書簡は、魏公の書斎にある古い陶器の壷の底に隠されている。
魏公の野心は留まるところを知らず、今度は『月影草』の毒を用いて、皇太子殿下の命を狙っている。皇太子よ、どうか慎重に行動されよ。』
凛は、父の友が遺した血涙の告発文を前に、
ただ、嗚咽を噛み殺していた。
雪藍は、その震える肩を、そっと支える。
朱華は、解読された文が記された紙を、静かに握りしめた。
その瞳から、迷いや葛藤は完全に消え失せ、次代の王としての、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「…魏公。お前の夜も、これまでだ」
その声は、宮廷に訪れる、次なる嵐の始まりを告げていた。




