「ただ一日、お前の隣で」
章1:お忍びの誘い
その日の夕刻、朱華はどこかそわそわとした様子で、雪藍が作業をしているであろう香室へと向かった。
中を覗うかがうと、雪藍は一人、残って香木の整理をしている。その真剣な横顔を見ているだけで、朱華の胸は焦がれるような想いで満たされた。
そっと音を立てずに中へ入る。香の香りに気づいた雪藍が、驚いて振り返った。
「朱華様…!どうしてここに…」
「雪藍。今宵、城下で賑やかな祭りがあるそうだ」
朱華は、子供のように瞳を輝かせ、彼女に語りかけた。
「…退屈な宮廷を抜け出して、二人で忍んで行ってみないか?」
そのあまりに唐突な誘いに、雪藍は目を丸くする。
「で、ですが…皇太子様がお忍びで街へ出るなど、危険です…!」
「案ずるな。俺がそばにいる。誰にも気づかせはしない」
朱華は悪戯っぽく笑うと、雪藍の手を取った。
「…ただ、お前と、普通の人々のように、祭りを歩いてみたいのだ」
その切実な、それでいて甘い響きに、雪藍の心臓が大きく跳ねた。
皇太子としてではなく、ただ一人の男として、自分との普通の時間を欲してくれている。その事実が、どんな宝石よりも彼女の心を輝かせた。
「……はい」
雪藍は、はにかみながら、しかしはっきりと頷いた。
「嬉しいです。朱華様と、お祭りに」
こうして、二人の初めての、そして誰にも知られてはならぬ甘い休日が、密やかに計画されたのだった。
章2:庶民の装いと祭りの囁き
宮廷を離れ、朱華と雪藍は小さな屋敷の一室で、庶民の衣装に身を包んだ。
雪藍は清楚な白の上衣に淡い青の袴を合わせ、長い黒髪を簡単にまとめている。
いつもの香女の装束では見せない、柔らかく自然な姿だった。
朱華も威厳を抑え、深い藍色の簡素な衣を纏い、皇太子という存在感を隠していた。
「……こうして外を歩くのも、久しぶりです」
雪藍が小さな声でつぶやく。目の端に少しだけ緊張が見えるが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
朱華はすっと手を差し出す。
「雪藍、お前の手、借りていいか?」
彼女は一瞬ためらい、そして小さく頷いた。
指先が触れ合うと、自然と肩を寄せ合い、二人の距離は一瞬で縮まった。
手の温もりが、静かな高揚をもたらす。
郊外の祭り会場は、色とりどりの幟や提灯が風に揺れ、屋台から漂う香ばしい匂いが空気を満たしていた。
「朱華様、これも食べてみましょうか……」
雪藍が差し出す串焼きを受け取り、朱華は少し戸惑いながらも一口頬張る。
初めて口にする庶民の味に、彼の眉がゆるみ、思わず笑みがこぼれた。
そのとき、女性たちのひそひそとした囁きが耳に届いた。
「まぁ、あの人……美しいわね」
「肩幅が広くて、背筋もすっと伸びていて、まるで絵巻から抜け出したよう………」
「でも、あの横にいる子は誰かしら…」
雪藍の頬が一瞬赤く染まる。
胸の奥に、きゅっと小さな棘のような感覚が走った。
「朱華様…」と、思わず袖を握る指に力がこもる。
女性たちの囁きが耳に届くと、朱華はわずかに口角を上げ、雪藍の肩をそっと抱き寄せた。
その視線が細められた瞬間、周囲の空気がぴんと張り詰める。
「俺の隣にいる者に、誰一人として手出しはさせない」
低く落ち着いた声は、牽制でありながらも、雪藍を包み込む確かな優しさを帯びていた。
その腕の中で、雪藍は守られているというよりも、確かに“選ばれた”のだと感じた。
甘く、そして少しだけ息苦しいほどに。
雪藍はくすくすと笑いながらも、朱華の腕の中で少しだけ頬を膨らませる。
嫉妬と安堵が混ざった微笑みを浮かべ、朱華は心から楽しそうに微笑み返す。
その時、人だかりができている占いの露店が目に入る。雪藍が興味深そうに見つめていると、朱華がその手を引いた。
「占ってもらうか」
老婆の占い師は、二人の手をそれぞれ取ると、しばし黙考し、やがてしわがれた声で言った。
「ほう…これは珍しい相じゃな。天に坐す龍と
、地に咲く月下美人…。決して離れてはならぬ、一つになるための魂じゃ。…苦労は多かろうが、案ずるな。お前さんたちの絆は、やがてこの国の何よりの宝となる」
その言葉に、雪藍の胸が熱くなる。
朱華もまた、真剣な眼差しで雪藍の手を固く握りしめた。
章3:嫉妬の炎
屋台の灯りがゆらめき、香ばしい焼き団子の匂いが漂う。
雪藍が香りに顔をほころばせていると、不意に数人の若い男が近寄ってきた。
「お嬢さん、一人かい? 一緒に酒でもどうだ?」
にやにやと笑いながら、軽く肩へ手を伸ばす。
雪藍は驚きに目を瞬かせ、思わず隣にいる朱華の袖をぎゅっと握った。
「えっ……あ、あの……」
か細い声で断ろうとするが、男たちはその仕草を気づかぬふりで迫ってくる。
次の瞬間――。
朱華の瞳が鋭く光り、低い声が割り込んだ。
「…誰に声をかけている」
普段は柔らかな物腰の彼の声音が、氷の刃のように冷たい。
男たちは思わずたじろぐが、軽口を叩いてごまかそうとする。
「な、なんだ兄ちゃん、恋人か? 別に取ろうってんじゃ……」
朱華は雪藍の肩を抱き寄せ、彼女を胸元に庇う。
その腕には怒りと独占欲が露わで、祭りの灯火が彼の横顔を朱に染める。
「そうだ。俺の大切な人だ。触れることは許さない」
その一言に、男たちは言葉を失い、慌てて退散していった。
雪藍は頬を赤らめ、彼の胸元に顔を埋める。
「……朱華様、そんなに怒らなくても……」
「怒るに決まっているだろう。目の前でおまえを奪われそうになったんだ」
拗ねたような声に、雪藍は思わずくすくすと笑ってしまう。
「嫉妬深い方ですね」
「当然だ。おまえに微笑みかけられるのは、俺だけでいい」
朱華の真剣さと、少し幼さの残る独占欲。その混ざり合った眼差しに、雪藍の胸は甘く、静かに満たされていった。守られているだけではない。
彼の腕の中で、自分が確かに望まれていることが、胸の奥に静かな灯火のように温かい。
雪藍は朱華の胸元で、彼の鼓動をそっと感じていた。
章4:瑠璃の贈り物
宝石商の店先は、祭りの喧噪の中でひときわ輝いていた。
色とりどりの宝玉が夜灯りに照らされ、宝石のひとつひとつが炎のように煌めきを放っている。
「……綺麗」
雪藍の足が、ふと止まった。
目を奪われるように見つめたのは、深い瑠璃色に輝く小さなイヤリング。
その青は、まるで彼女の瞳を映したかのような色合いだった。
朱華は、その視線を逃さなかった。
にやりと微笑み、ためらいなく店主に声をかける。
「それを。――彼女に似合うだろう」
店主は目を細め、品を取り出しながら言った。
「お客人、見る目がおありだ。奥方の瞳に、よく映える」
「お、奥方……!」
雪藍の頬がぱっと赤く染まり、慌てて否定しようとする。
しかしその前に、朱華がすでに銀貨を払っていた。
「試してみろ、雪藍」
低く響く声と共に、朱華は彼女を人だかりの中に引き寄せた。
周囲には屋台を楽しむ人々、笑い声、熱気――それでも朱華は気にも留めず、堂々と雪藍の髪をかき上げる。
「朱華様っ、人が……」
抗議の言葉は、震える声でか細く途切れた。
朱華の指先が耳元に触れ、ひやりとした金具の感触が肌に寄り添う。
雪藍の胸は早鐘のように打ち、恥じらしさに身を縮めながらも、逃れられない。
「……やはり、思った通りだ。お前の瞳に、よく映える」
囁きは、彼女の耳たぶをくすぐるほど近く。
周囲の者たちが、驚きと羨望の声を上げた。
「まあ……なんて絵になる二人」
「羨ましいわ、あんなふうに大切にされるなんて……」
雪藍の頬は火が灯ったように赤くなり、言葉を失った。
それでも、朱華の腕が肩を抱くように自然に寄せられると、不思議と心は満たされていく。
瑠璃色のイヤリングが、祭りの灯火に揺れ、煌めいた。それはまるで二人だけの誓いの証のように。
章5:瑠璃に映る想い
祭りの灯が遠くに霞んでいく。
人込みを抜けた先は、川沿いの小径。笛や太鼓の音もここまでは届かず、夜風が頬を撫でるだけだった。
雪藍はそっと耳に触れた。
揺れるイヤリングが、ひやりとした感触を残す。
「……さっきは、本当に恥ずかしかったです」
小さな声でそう言うと、朱華はおかしそうに笑った。
「人前で赤くなるお前を、俺は独り占めできた。あれほど甘美なものはない」
「朱華様は……ずるいです。わたしの気持ちも、皆の視線も、ぜんぶ掻き乱してしまう」
雪藍は少し唇を尖らせ、しかし瞳は揺れる灯にきらめいていた。
朱華は歩みを止め、彼女の前に立つ。
そして、そっと彼女の髪をかき上げた。祭りの喧噪から離れた静けさの中で、彼の指先が改めてイヤリングを確かめるように触れる。
「この瑠璃の色……俺には、お前の瞳と同じに見える。雪藍、お前がどこにいても、俺はこの色を見ればすぐに見つけられる」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
雪藍は思わず朱華の衣の裾をぎゅっと握った。
「……わたしも。もしこの色がどこかで揺れていたら、それはきっと朱華様の贈り物だから――すぐに、あなたを思い出せます」
朱華の瞳に、柔らかな笑みが宿る。
その微笑は、炎のように激しくもあり、月光のように穏やかでもあった。
二人の間に言葉は要らなかった。
ただ風に揺れるイヤリングが、静かな誓いの証のように、夜の川面に淡い光を落としていた。
章6:祭りの余韻に抱かれて
祭りも終わりに近づき、朱華と雪藍は街の中の高級宿へと静かに歩を進めた。
雪藍は朱華の手を握り、心の奥が温かく満たされていくのを感じた。
「朱華様……今日は、とても楽しかったです」
「俺もだ、雪藍」
宿に到着すると、二人だけの静かな空間が待っていた。
窓の外、夜空を彩る花火が大きく咲いては消え、二人の影を壁に映し出す。
朱華はそっと雪藍の腰を引き寄せ、吐息がかかるほどの距離で見つめ合った。
「雪藍…」
名を呼ばれただけで、身体が熱くなる。花火の光が雪藍の瞳に映り、潤んだ光が朱華を誘う。
どちらからともなく唇を重ね、最初は優しく、やがて互いの熱を確かめるように深くなった。
朱華の唇は雪藍の首筋をなぞり、熱い吐息を吹きかける。祭りで彼が贈ってくれた耳飾りが、彼の動きに合わせてちりりと小さな音を立てた。朱華はその耳朶に唇を寄せ、囁く。
「今宵もまた、雪藍の乱れた姿を、俺だけに許してくれるか?」
その甘い声に、雪藍は熱い吐息を漏らし、彼の腕の中で蕩けるように頷いた。
外で咲く大輪の花火が、二人の影を一つに結び、部屋を何度も照らしては消していく。
肌を重ねる熱と、耳元で繰り返される愛の言葉。贈られた瑠璃のイヤリングが揺れる音だけが、甘く響いていた。
ひときわ大きな花火が夜空を照らし、世界が光に満ちた瞬間、二人の魂は溶け合い、一つになった。
やがて、二人は互いの肌に残る熱を感じながら、静かに抱きしめ合っていた。
「……まるで夢のようでした」
「夢なら、何度でも見せてやる。お前が望む限り」
窓の外には、祭りの名残を惜しむように、風鈴の音が微かに揺れていた。
――この夜は、きっと一生、忘れられない。
祭りの喧騒が遠ざかっても、心に刻まれた熱は、静かに、深く、燃え続けていた。
翌朝、二人は宿を静かに後にした。
手を握り合い、肩を寄せ合いながら歩く二人の間には、昨夜の熱も、笑い合った祭りの楽しさも、そっと残っていた。
「朱華様……また、こうして一緒に出かけたいですです」
朱華は微笑み、そっと雪藍の頭を撫でた。
「もちろんだ。これからも、二人だけの時間を大切にしていこう」
静かで穏やかだが、深く、温かい幸福感が、日常に戻った世界にも確かに灯り続けていた。




