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「偽りの罪、真実の絆」第一部 - 過去からの欠片 -

第一章:穏やかな日々に差す、過去の影


凛が静月殿せいげつでんに引き取られてから、一年が過ぎていた。彼は朱華の「影」として、その類まれなる才覚を発揮し、宮廷内での信頼を静かに、しかし着実に築き上げていた。心を閉ざしていた氷の瞳は、雪藍を「姉上」、朱華を「兄上」と呼ぶうちに、穏やかな光を宿すようになっていた。三人の間には、歪ながらも確かな「家族」の形が生まれていた。


しかし、凛の心の奥底には、誰にも触れさせぬ聖域と、決して癒えることのない深い傷が、今も存在していた。両親の命日。彼は誰にも告げず、夜明け前の薄闇の中、一人で宮廷の片隅にある小さなほこらで祈りを捧げる。その小さな背中が、世界のすべての孤独を背負っているかのように震えていることを、雪藍だけが、そっと遠くから見つめていた。


第二章:開かれた過去の扉


その数日後、宮廷の宝物庫で、年に一度の虫干しが行われることになった。それは、国宝級の美術品から、過去に没収された貴族の品々まで、あらゆるものが風に当てられる日。朱華は、雪藍からの進言もあり、一つの決断を下す。


「凛に、彼の一族の品々を見せてやってほしい。

過去と向き合うことが、あいつが前に進むために必要かもしれん」


それは、凛の心を思う、兄としての苦渋に満ちた配慮だった。

蔵に足を踏み入れた凛は、かつて自邸にあったはずの調度品や書画を、無感動に、ただの物として眺めていた。だが、その足が一つの品の前でぴたりと止まる。

母が愛用していた、螺鈿らでん細工の美しい硯箱すずりばこ。凛の脳裏に、遠い日の母の言葉が蘇った。


嵐の夜だったろうか。雷の音に怯える幼い自分を、母は優しく抱きしめ、そして、この硯箱すずりばこを見せながら、悪戯っぽく微笑んで言ったのだ。


『凛。この硯箱すずりばこにはね、母様の、誰にも言えない大切なものが隠してあるのですよ。今はまだ、お話しできません。でも、覚えていて、凛。いつか、あなたが大きくなって、本当のことが知りたくなった時に、この箱がきっと、あなたを守ってくれます』


幼い日の戯言と忘れていた言葉が、今、重い意味を持って彼の胸に突き刺さった。


凛は、父の書斎で度々見かけた、鎮西公ちんぜいこうの不正に関する調査資料を思い出していた。

父は、清廉な官僚として、鎮西公が東域の勢力と結託し、国を揺るがす密約を交わしているという噂を密かに追っていたのだ。

そのために、「東域密約書」や「鎮西公からの返書」といった、証拠となり得る書簡を密かに集めていたことを、彼は朧気おぼろげながら知っていた。


しかし、事件後、父の書斎からそれらの書簡は忽然と姿を消し、代わりに「凛の父が鎮西公と共謀し謀反を企てていた」とする偽の証拠が提出され、父は罪に問われたのだ。凛は、あの日の混乱の中で、何かが歪められたと直感していた。母の言葉と、この硯箱は、その歪みを正す鍵となるのだろうか。


第三章:母が残した、最後の希望


凛は、朱華の許可を得て、その硯箱を自室に持ち帰った。彼は、朱華や雪藍にも告げず、一人、その秘密と向き合う。それは、母との最後の対話のように感じられた。数日にわたる試行錯誤しこうさくごの末、彼は硯箱に施された複雑な隠しからくりを解き明かす。


硯箱の二重底から現れたのは、一枚の古びた和紙。

その和紙には、緻密な手筋で打たれた囲碁の棋譜きふが墨で記され、その隅には月影草つきかげそうの押し花が添えられていた。


(…母上の、大切なもの…)


かつて反乱分子に見せられた偽の書状とは違う。そこには、母の指先の温もりが、まだ残っているような気がした。


凛は、和紙に書かれた棋譜の意味を解くことができず、数日、一人で苦悩する。だが、母が残した「守ってくれる」という言葉と、添えられた「月影草」の押し花がただの花ではないことに気づいた時、彼は意を決して、雪藍のいる香室の扉を叩いた。彼のプライドが、初めて他者に助けを求めた瞬間だった。


「姉上。…この棋譜と、この花の名を、ご存じですか」


第四章:未解読の警告


雪藍は、その押し花を一目見るなり、息を呑んだ。


「これは、『月影草つきかげそう』…。特定の地域の解毒薬げどくやくとして使われますが、使い方を誤れば、人を狂わせる毒にもなる稀少きしょうな薬草です。なぜ、これが…」


彼女は、棋譜と月影草を交互に見つめ、眉を寄せた。


「…この棋譜きふも、月影草つきかげそうも、ただの贈り物とは思えません。まるで、何かを伝えようとしている…しかし、今はまだ、その意味が読めません。ただ、漠然とした不安だけが、胸に…」


雪藍は、まだ棋譜に隠された真のメッセージを解読することはできなかったが、その中に**「毒」と「警告」**が込められていることを直感的に察知した。

凛の母は、何者かの手による恐ろしい陰謀と、その先に朱華の命が狙われる危険があることを、最愛の息子に伝えようとしていたのだ。


凛は、雪藍の言葉から、母がただの戯言ざれごとを言ったのではないこと、そして、この棋譜と月影草に、父の無実と、未来の危険に関する重大な秘密が隠されていることを確信した。


彼は、朱華にすべてを報告し、深く頭を下げた。


「兄上。これは復讐ではありません。

ただ、真実が知りたい。そして、あなた様と姉上を、守りたい。それだけなのです」


朱華は、これが過去の皇室の裁きをくつがえし、国の根幹を揺るがしかねない、あまりにも危険な調査であることを痛感する。彼の額に、皇太子としての苦悩が深く刻まれた。しかし、目の前で覚悟を決めた弟の瞳と、その隣で静かに、しかし絶対的な信頼を込めて自分を見つめる妻の瞳から、彼は目を逸らすことができなかった。


「…分かった。俺も、お前の兄だ。そして、この国の次代の王となる者だ。過去の過ちから目を背けるわけにはいかぬ」


そして、その夜。

朱華は一人、父である皇上の寝所を訪れていた。

棋譜と月影草の押し花を手に、彼は皇太子としてではなく、ただ一人の息子として、父にすべてを打ち明け、この危険な調査への許しを請うた。

皇上は、息子が差し出した棋譜に静かに目を通した後、その盤面を指し、微かに眉を動かした。


「…この手筋は…まさか、亡き尚書令(しょうしょれい)季公(きこう)の手か?」


皇上のその言葉に、朱華は驚きに顔を見合わせた。

季公きこうとは、かつて凛の父の親友であり、

その死の直前まで、共に宮廷の不正を暴こうとしていたと囁かれた人物だった。事件後、彼もまた行方不明となり、その一族も表舞台から姿を消していたのだ。


「…父上は、この棋譜を通じて、季公きこう殿にも何かを伝えようとしていたのか…」


凛は、新たな可能性に、深く息を呑んだ。

それは、三人が「家族」として、初めて宮廷の巨大な闇に共に挑むと決意した、静かな誓いの瞬間だった。

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