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「瑠璃色の海と、初めての嫉妬」

章1:海への憧れ

穏やかな夜、静月殿で雪藍は、異国から献上された「海の絵」が描かれた書物を、うっとりと眺めていた。


(…海。私の瞳と同じ、瑠-璃色をしているという…。どんな香りがして、どんな音がするのだろう…)


その、子供のような純粋な憧れの表情を見つけた朱華が、優しく問いかける。


「どうした?」 「…私、海というものを、まだ一度も見たことがないのです。書物でしか知らぬのですが…空と同じ瑠璃色をしていると」


その切なげな横顔に、朱華の独占欲と庇護欲が刺激される。


「…ならば、見せてやろう。この国で一番美しい、 瑠璃色の海を」


彼は、雪藍の手を取り、その瞳をまっすぐに見つめた。


「明日、旅に出る。支度をしろ」


そのあまりに急な決定に、雪藍が驚きに目を見開いていると、部屋の隅で控えていた凛が、静かに一歩前に出た。


「姉上。海辺は風が強く、足場も悪い。俺が護衛としてお供します」


その言葉に、朱華は少しだけ眉をひそめる。


「…まあ、良い。お前がいれば、雪藍も安心だろう」


こうして、三人の海への旅が、唐突に決まったのだった。


章2:太陽の娘

海辺の離宮に到着した三人は、息を呑んだ。 目の前には、どこまでも続く瑠璃色の海原が広がっている。打ち寄せる波の音、潮の香り、肌を撫でる風。そのすべてが、雪藍にとっては初めての体験だった。 彼女は、裾が濡れるのも構わずに、波打ち際へと駆け寄ると、子供のようにはしゃいだ。 朱華は、その無邪気な姿に目を細めると、すぐさま彼女の元へと駆け寄った。


「雪藍!ほら、もっと面白いことを教えてやろう」


そう言って、朱華は雪藍の手を取り、柔らかい砂の上に座り込んだ。


「これは、どうだ?」


彼は慣れた手つきで、濡れた砂を丸めると、あっという間に小さな塔を作り上げた。 雪藍は目を輝かせる。


「まあ…!朱華様、まるで魔法のようです!」 「魔法ではない。愛の力だ」


朱華は悪戯っぽく微笑むと、雪藍の指先にそっと触れた。


「さあ、お前もやってみろ。俺が手伝ってやる」 


朱華の大きな手が、雪藍の小さな手を包み込み、 共に砂を積み上げていく。 二人は笑い声を上げながら、夢中になって砂のお城を築き上げた。 完成した小さな城を前に、雪藍は心から嬉しそうに朱華に寄り添った。


「朱華様…こんなにも楽しいものなのですね、海というのは…」 「ああ。そして、お前と分かち合う、初めての海は、想像よりもずっと美しい」


朱華は雪藍の頬に優しく口づけを落とすと、その顔を愛おしそうに撫でた。


(…この笑顔を、誰にも奪わせはしない)


二人の間に流れる甘やかな空気を、少し離れた場所から凛は静かに見つめていた。 彼の瞳は、その親密な光景を、ただじっと、しかし確かに焼き付けていた。


夕餉のため、近くの漁村へ新鮮な魚介を求めに訪れると、一人の娘が威勢の良い声で出迎えてくれた。 村長の娘・玲夏れいかだった。日に焼けた肌に、太陽のような明るい笑顔を持つ、快活で少し男勝りな娘だ。 彼女は、朱華のまとう上質な衣にも物怖じせず、屈託なく話しかけてきた。


「都のお方は、肌が真珠のようだな!日に当たったことがあるのか?」


いつも追従の言葉ばかり聞いている朱華は、その素朴で真っ直ぐな物言いが新鮮で、思わず声を上げて笑ってしまった。


「ははは!面白い女だな、お前は」 「だろう?さあ、とびきり新鮮な魚があるぞ!」


玲夏と朱華は、まるで旧知の友のように、楽しげに言葉を交わし始める。


雪藍は、そんな二人の姿を見て、初めて胸の奥がチリ、と痛むのを感じた。


(…私の知らない、朱華様の笑顔…)


自分にはない、太陽のような眩しい魅力を持つ女性。その隣で、心から楽しそうに笑う夫の姿。 雪藍の心に、初めて、小さな嫉妬の棘が刺さった。


章3:月の(かげ)

「せっかくだ、あたしがこの村一番の景色を見せてやろう!」


玲夏はそう言うと、小さな舟を指差した。 朱華も、その申し出を面白がって受ける。 彼は、まず隣にいる雪藍に、優しく微笑みかけた。


「雪藍、お前も来るか?初めての舟も、悪くないぞ」


雪藍は、太陽の下で輝く玲夏と、その隣で楽しそうに笑う朱華を見る。舟の扱いも知らず、日に当たることにも慣れていない自分が、その眩しい光の中に入っていくことを、無意識にためらってしまった。 彼女は、少しだけ寂しげに微笑んで、首を横に振る。


「…いえ。私は、舟は少し苦手ですので…。お二人のご様子を、こちらから拝見しております」


朱華は、その言葉に少しだけ寂しそうな顔をしたが、「そうか…残念だ」と、彼女の意思を尊重した。 舟の上で、玲夏と朱華が子供のように水をかけ合って笑っている。 その光景が、あまりに親密に見えてしまい、雪藍は見ていられずに、そっと背を向けてしまった。


その心の翳りを、誰よりも早く敏感に察知していたのは、凛だった。 彼は、いつの間にか雪藍の隣に立つと、黙って自分の上着を彼女の肩にかけた。


(…兄上は、気づいておられないのか。姉上の、あの寂しそうな背中に。…ならば、俺が。この人がただ一人の姉上であることを、一瞬たりとも忘れはしない、俺が、お守りする)


「姉上。風が冷たくなってきました。離宮へお戻りください」


その静かな優しさが、かえって雪藍の孤独を際立たせた。 彼女は、ただ、黙って頷くことしかできなかった。


章4:月は太陽に嫉妬する

その夜、離宮で。 雪藍は、窓の外の暗い海を見つめ、一人沈んでいた。朱華が、心配そうにその肩を抱く。


「どうした、雪藍。昼間から、元気がないじゃないか」


彼は、心配そうにその顔を覗き込む。


「…まさかとは思うが、昼間、俺があの娘と笑いすぎていたから…なんて、そんなはずは、ないか…?」


その言葉に、せきを切ったように、彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「…やきもちを、焼いてしまいました」


ついに、彼女は涙ながらに告白した。


「…玲夏様のように、私は、太陽の下であなた様と笑い合うことができない。私にはないものを、すべて持っていて…眩しくて…怖くなりました」


その、あまりに愛おしい告白に、朱華は一瞬、言葉を失った。 そして、次の瞬間には、どうしようもないほどの愛情が込み上げ、彼女を強く抱きしめた。


「…馬鹿なやつだ」


彼は、雪藍の耳元で、蕩けるように甘く囁いた。


「太陽がどれほど眩しくとも、俺が安らげるのは、お前という月の光の中だけだ」


その言葉に、雪藍が顔を上げる。


「…分からないか?ならば、今夜は嫌というほど、その身体に教え込んでやる。俺の世界には、月はただ一つしか昇らぬということを」


彼の黒曜石の瞳が、熱い独占欲の炎に燃えていた。 二人の唇が、最初は優しく、やがて激しく重なり合う。 寝台の上で、朱華は雪藍の衣を、一枚一枚、宝物を確かめるように剥いでいく。


「太陽の光など、目を焼くだけだ。俺が欲しいのは、この月光に照らされる、真珠の肌だけ…」


彼の唇が、彼女の肌を慈しむように覆い、そのすべてを味わう。それは、嫉妬の影を消し去り、彼女が自分だけのものであると刻みつけるための、儀式にも似ていた。


「んっ…!しゅ、朱華様…っ」 「見ろ、雪藍。太陽の娘と笑っていた時のお前は、こんなにも熱くはならなかった。…お前を蕩かすのは、俺だけだ」


その言葉を合図に、二人の影は月光の下でひとつに溶け合った。 肌を重ね、互いの熱を分け合うことでしか、伝えられない想いがある。 朱華は、彼女の心の翳りを、その内側から自らの光で満たし、照らし出そうとした。


「はい…っ!私は、あなた様だけの月です…!だから、お願い…あなたの光で、私の内側を、隅々まで照らし出して…!もう、どんな影も、宿らないように…っ!」


「ああ、お前の望むままに」


その夜、二人は言葉なく、ただ互いの魂を確かめ合うように、深く結ばれた。


「雪藍…!もう、境界はない…!俺とお前は、一つだ…っ!」 「はい…っ!もう、私は、あなた様…!共に…どこまでも…っ!」


ひときわ深く結ばれた瞬間、二人の身体は同時に激しく痙攣した。


月が西に傾くまで、二人は幾度となく互いを求め合った。 やがて腕の中で、疲れ果てて蕩ける雪藍の髪を、朱華は優しく梳いた。


「…雪藍」 「…はい、朱華様…」 「…それで?お前の心の棘は、もう、溶けて消えたか?」


その、少しだけ意地悪な、しかし愛情に満ちた問いかけに、雪藍は、彼の胸にこてんと頭を預けたまま、くすくすと、鈴を転がすように笑った。


「…はい。もう、どこにも見当たりません」


彼女は、幸せそうに、続ける。


「だって、私、知ってしまいましたから。太陽は、遠くから見るからこそ眩しいけれど、近づきすぎれば、ただ熱くて焦がされるだけなのだと。 …でも、月の光は、こうしてそばにいても、ただ、優しく、私を照らしてくださる。…私が欲しいのは、焦がされるような熱ではなく、この、腕の中の温もりだけです」


朱華は、その答えに満足して、彼女の髪に深く、深く、口づけを落とした。


「…利口な月だ。ならば、生涯、俺の夜だけを照らせ」 「…それから、雪藍」 「はい?」 「…昼間、お前が初めて海を見て、子供のようにはしゃいでいたな。あの笑顔…。…あれは、少しだけ、嫉妬した」


雪藍は、驚いて顔を上げる。


「まあ…!海に、でございますか?」 「ああ。お前のあんな無防備な笑顔を引き出せるのは、この世で俺だけでありたいのだ。…だから、次に海を見に行く時は、まず俺に口づけしろ。さすれば、海よりも先に、お前を笑顔にしてみせる」


その声は、絶対的な愛の誓いとなって、静かな夜の海に溶けていった。

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