「書斎の夜、背徳の香り」
章1:夜食と、甘い罠
深夜。皇太子の書斎には、灯籠の光が落とす影が、まるで疲れそのもののように深く落ちていた。 朱華は、山と積まれた書簡の山に埋もれ、こめかみを強く押さえていた。 北国との交渉は、羅刹将軍が心を開いたとはいえ、その後の細部の詰めが難航を極めている。 (…埒が明かぬ) 苛立ちに、思わず舌打ちが漏れた。
その時、静かに扉が開き、盆を手にした雪藍が、音もなく入ってきた。 盆の上には、温かい茶と、彼女が作ったであろう小さな菓子。 そして、心を鎮める効果のある特別な香が、細く煙を立てる小さな香炉。
「…雪藍」
疲れ果てた朱華の声に、彼女は優しく微笑んだ。
「お邪魔とは思いましたけれど…少しでも、お心が安らげばと」
彼女がそばにいるだけで、部屋の空気が和らぐ。香のせいか、彼女自身の気配のせいか。
「…少しだけだ」
朱華は、盆を机に置いた雪藍の腕を取り、抗う暇も与えず、自分の膝の上へと座らせた。
「少し、お前の香りを吸ったら、仕事に戻る」
彼は、雪藍を後ろから抱きしめ、そのうなじに顔を埋めた。 それは、本当にただの短い休息のつもりだった。
章2:聞かれる吐息
雪藍の体温と、彼女から漂う甘い香りに包まれているうちに、朱華の中で張り詰めていた理性の糸が、 ぷつり、と音を立てて切れた。 最初は髪へ、次はうなじへ…と、口づけが次第に深くなっていく。
その時、廊下から、護衛の兵が交代する鎧の擦れる音と、宦官のかすかな咳払いが聞こえた。 二人の身体が、びくりと震えて動きを止める。扉には、鍵がかかっていない。
「朱華様…!だめです、誰か来ます…!」
雪藍が、パニックに陥った小動物のように、囁いた。
その恐怖に怯える雪藍の姿が、逆に朱華の嗜虐心に火をつけた。 彼は悪戯っぽく笑うと、彼女の耳元に、さらに低い声で囁き返す。
「…静かにしろ、雪藍。声を出さねば、気づかれまい。…それとも、俺に気づかせてみたいか? お前が、どれほど感じているかを」
「ひゃ…っ!」
雪藍は慌てて両手で口を塞ぐ。 朱華は、そんな彼女を抱き上げたまま、音もなく立ち上がると、扉から見えない、大きな机の陰へと移動した。
章3:支配者の机、妃の聖域
国の全てを支配する、彼の権力の象徴である「書斎の机」。 その重厚な机に、朱華は雪藍の背を優しく押し付けた。
「しゅ、朱華様…!こんな、ところで…」 「ああ。ここで、だ」
彼は、雪藍の両手を机の上へと導き、その上に自分の手を重ねて、動けぬように縫い止める。
「この国の全ては、この机の上で決まる。そして、その全てを支配する俺は、今、お前だけのものだ」
彼の指が、彼女の衣の合わせ目から滑り込み、帯をゆっくりと解いていく。 絹が擦れる音と、机の上の書簡が微かに揺れる音だけが、二人の熱い吐息に重なった。
「んっ…!」
雪藍は必死に声を殺すが、熱い吐息が漏れる。 朱華の唇が、その首筋から肩へと、まるで己の所有印を刻むかのように、甘い愛の痕を咲かせていった。
「…声を出してみろ、雪藍。外の護衛に、俺たちの声を聞かせてやるか?」 「い、や…です…っ、んんっ…」
その意地悪な囁きと、背徳的な快感に、雪藍の身体は正直に震える。 朱華の手が彼女を求め、肌を重ねる。書斎に響くのは、衣擦れの音と、紙の擦れる音、そして、二人の必死に殺した喘ぎ声だけ。 やがて、朱華が雪藍の耳元で低く呻き、彼女の中で熱く果てた瞬間、雪藍もまた、声なき絶頂に達し、 机の上にぐったりと崩れ落ちた。
事が終わった後、二人は素早く衣を整える。 朱華は、驚くほど冷静な顔で再び書簡に向かう。 しかし、その机の下では、雪藍の手を固く、固く握りしめていた。 雪藍は、彼の隣に座り、何も言わずにその手を握り返す。
「…怖かったか?」
静寂を破ったのは、朱華の低い声だった。
「いいえ」
雪藍は、少し潤んだ瞳で微笑んだ。
「…むしろ、これまでで一番、興奮いたしました。あなた様の、一番大切な場所で、あなた様と一つになれたことが…どうしようもなく、嬉しくて」
そのあまりに大胆で、愛おしい告白に、朱華は息を呑む。 彼は、たまらないというように、雪藍の手を自らの唇へと引き寄せ、その指先に、深く口づけを落とした。 そして、ふと、何かを思いついたように悪戯っぽく微笑むと、机の上に置かれていた、まだ乾いていない硯から、自らの筆を手に取った。
「朱華様…?」
朱華は何も言わず、雪藍の手のひらをそっと上に向かせると、その白い肌の上に、まるで国の未来を左右する勅命を記すかのように、丁寧な筆致で、一つの文字を書き付けた。
『華』
それは、彼の名の、一文字。 雪藍は、自らの手のひらに刻まれた、彼の魂の欠片を見つめ、息を呑んだ。
「…俺の印だ。お前は、俺の全てだと言ったな。ならば、俺の名の一文字をお前に預ける。 …この墨が乾かぬうちは、決して俺のそばを離れるな」
その、あまりに甘く、絶対的な支配の言葉。 雪藍は、涙がこぼれそうになるのを必死で堪え、今度は自ら、そっとその筆を取った。 そして、彼の大きな手のひらに、震える指で、お返しの印を刻む。
『雪』
彼女は、上目遣いで、悪戯っぽく微笑んだ。
「…はい。では、わたくしも。あなた様のその手に、わたくしの印を刻ませていただきます。 …この墨が乾く前に、わたく以外の女に、この手を触れさせないでくださいね」
その健気な独占欲に、朱華は完全に撃ち抜かれた。
「…ああ、誓う。永遠に」
彼は、たまらないというように、彼女の手を取り、墨で汚れるのも構わずに、深く、深く、口づけを落とした。 二人の間に生まれた、新しい秘密の共犯関係を、香の煙だけが見ていた。




