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「姫君たちの戦場と、二人だけの抜け駆け」

章1:祭りの誘い


凛が静月殿に引き取られてから、一年が過ぎた。

十四だった少年は十五となり、背は伸び、その顔立ちは美しさの中に、精悍(せいかん)な若武者の鋭さを宿し始めていた。

彼は、朱華の「影」として密偵の務めをこなしながら、表向きは皇太子直属の護衛隊長として、

その揺るぎない忠誠心と剣の腕で、宮廷内にその名を知られるようになっていた。


その日、都では年に一度の「観灯祭かんとうさい」が開かれ、城下は夜まで賑わいを見せている。

雪藍は、窓の外から聞こえる微かな喧騒に、ふと、懐かしい気持ちになっていた。


「…凛は、ああいったお祭りには、行ったことがないのでしょうね」


その呟きに、隣で書を読んでいた朱華が顔を上げる。


「…そうだな。あいつはずっと、孤独の中にいた」


雪藍は、朱華の瞳を見つめた。


「朱華様。今宵、三人でお忍びで、観灯祭へ行ってみませんか?」

「三人で?」

「はい。凛にも、宮廷の外の、温かい光を見せてあげたいのです」


その優しい提案に、朱華はたまらないというように微笑んだ。


「お前は、本当に。…分かった。だが、条件がある。凛は、俺たちの護衛として同行させる。いいな?」

「ふふ、承知いたしました」


こうして、三人の少し変わった夜の外出が決まった。


章2:姫君たちの戦場


祭りの夜。城下は、色とりどりの灯籠が天の川のように連なり、幻想的な美しさに満ちていた。

三人が向かったのは、祭りの会場の中でも、特に警備が厳重で、身分の高い者たちだけが集うことを許された川沿いの「観覧区画」。


雪藍が身につけたのは、刺繍もない、淡い藤色の落ち着いた小袖。朱華もまた、皇族の紋を一切排した、上質ながらも無地の深い藍色の衣だ。それは、庶民になりすますためのものではない。

煌びやかな貴族たちの間で、できるだけ目立たず、ただの『若い恋人同士』として過ごすための、

ささやかな願いを込めた装いだった。

一方、凛だけは、護衛隊長の凛々しい制服に身を包んでいる。

その姿が、悲劇(あるいは喜劇)の始まりだった。


「まあ、あの方は…凛様ではございませんか?」

「なんて素敵な…!」


凛の周りだけ、どこからともなく現れた若い姫君や令嬢たちの、熱狂した戦場と化していた。


「凛様、その剣さばき、わたくしにも教えてくださらない?」

「いいえ、凛様は詩歌の才もおありと伺いましたわ。今度ぜひ一首…」


姫君たちは、それぞれが自分の得意分野で凛の気を引こうと、火花を散らす。

しかし、凛は彼女たちの熱い視線を、氷の壁のようにはねのける。


「お褒めにあずかり、光栄です。ですが、今は殿下と妃殿下の護衛という、任務中ですので」


完璧な礼儀作法。完璧な笑顔。しかし、その灰色の瞳には、一切の感情が宿っていない。

その「鉄壁の塩対応」が、逆に姫君たちの恋心を燃え上がらせてしまうことを、彼は知らない。


章3:二人だけの抜け駆けと、灯籠の誓い


その光景を、少し離れた場所から見ていた朱華は、くすくすと笑いを漏らした。


「…やれやれ。あいつも、苦労しているな」


彼は、雪藍の手をそっと引くと、彼女の耳元で囁いた。


「凛には、良いおとりになってもらおう。…今だけは、お前は俺だけのものだ」


朱華は、凛が姫君たちの対応に追われている隙に、雪藍の手を引いて、灯籠流しの場所へと向かった。

そこでは、人々が願いを込めた灯籠を、次々と川面へと浮かべている。

朱華は、用意していた無地の灯籠と筆を雪藍に渡した。


「…願い事を書け。お前の願いなら、俺が必ず天に届けてやる」

「わたくしの、願い…」


雪藍は照れながらも、筆を取ると、朱華から見えないように、そっと小さな文字を書き付けた。

彼女が、震える指で書きつけたのは、ただ一言。『この温もりが、永遠に続きますように』と。


「何を書いた?」

「秘密です...」


雪藍がはにかむと、朱華は「ほう…」と悪戯っぽく笑い、彼女の背後から覗き込んだ。


「きゃっ…!朱華様、ご覧になったのですか!?」

「随分と、可愛らしい願い事を書くのだな」


朱華は、真っ赤になる雪藍から筆を取ると、彼女の願いの隣に、力強い筆致で己の願いを書いた。

二人は、そっと灯籠を川面に浮かべる。遠ざかっていく灯を見つめながら、雪藍が尋ねた。


「朱華様は、何をお書きになったのですか?」


朱華は、彼女の耳元にそっと唇を寄せ、囁いた。

「『来年も、その次の年も、生涯、このひとと共に、この灯を見られますように』…とな。

もはや、願うまでもないことだがな」


章4:氷の刃、弟の務め


灯籠流しの甘い余韻に浸る二人の前に、酒に酔ったらしい若い貴族の男が現れた。


「これはお美しい。お一人かな?よろしければ、一献…」


男が、雪藍の肩に手を伸ばそうとした、その瞬間。


「――その汚らわしい手を、姉上に触れるな」


背後から聞こえたのは、氷のように冷たい声だった。

いつの間にか、凛がそこに立っていた。


「…お下がり願おうか、名も知らぬ殿。妃殿下の御前であるぞ」


その静かな威圧に、貴族の男は顔を真っ青にして逃げていった。


雪藍は、ほっとすると同時に、その過剰なまでの守護欲に、少しだけ呆れてしまう。


「ありがとう、凛。でも、朱華様もいらっしゃったのですよ?」

「兄上は、姉上と二人きりの甘い時間に、夢中だったご様子でしたので」


凛の言葉には、ほんの少しだけ、棘があった。

その二人の様子を、朱華は、面白くてたまらないというように、腕を組んで見守っていた。


章5:三つの影法師


祭りの終わり。三人は、小高い丘の上から、都の灯籠が織りなす光の海を眺めていた。

凛は、少し離れた場所に、護衛として直立不動で立っている。

朱華は、雪藍の肩を優しく抱き寄せた。


「…あいつも、少しは楽しめたのだろうか」


朱華の言葉に、雪藍はくすりと笑う。


「ええ、きっと。…楽しかったからこそ、必死でいつもの自分を取り繕っているのですわ。

あの子は、素直になるのが、まだ少し下手なだけです」


彼女はそう言うと、侍女に預けていた菓子包みの中から、一番甘い蜜菓子を一つ、そっと取り出した。


「葵。これを、凛に届けてあげてください。『お疲れ様でした』と」


菓子を受け取った凛は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻り、

しかし、その菓子を、宝物のように、そっと懐にしまい込んだ。

その横顔に浮かんだ、ほんの微かな、誰にも気づかれぬほどの優しい笑みを、月だけが見ていた。


灯籠の光に照らされて、地面には三つの影法師が、仲良く寄り添うように、長く伸びていた。

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