「姉上は俺が守る」
章1:お茶会の計画と、痛む記憶
その日、静月殿には穏やかな昼下がりの光が差し込んでいた。
雪藍は、侍女である碧葉、葵、菫と共に、数日後に開かれる皇后様主催のお茶会について、楽しげに話し合っていた。
「皇后様は、甘いものに目がないと伺いました。何か、特別な菓子をお作りして、お持ちしたいのです」
雪藍の言葉に、葵がぱっと顔を輝かせる。
「まあ、素敵です!どのようなお菓子にされますか?」
「ええと…」雪藍は、古い薬草の書物を開き、一枚の挿絵を指差した。
「この、『雲上花』の蜜を使った花蜜羹はいかがでしょう。この花は、宮廷の裏手にある、少し切り立った崖の中腹にしか咲かないと聞きます。きっと、誰も味わったことのない、特別な味と香りになるはずです」
菫がうっとりとため息をつく。
「まあ…崖に咲く花のお菓子…。なんてロマンティックなのでしょう」
しかし、しっかり者の碧葉は、少しだけ眉を寄せた。
「ですが雪藍様、そのような場所に、お一人で行かれるのは危険です」
「大丈夫ですよ、碧葉。侍女の誰かに付き添ってもらいますから」
その会話を、部屋の入り口、几帳の陰で聞いていた者がいた。
凛だった。
彼は、朱華の側近として務めを果たしながらも、雪藍が静月殿にいる時は、まるで影のように、
常にその気配を近くに漂わせている。
(崖…だと…?)
凛の灰色の瞳に、強い光が宿る。
(――崖。…そうだ、父上と母上が、俺の前からいなくなったのも、まるで崖から突き落とされたような、あまりに突然の出来事だった…。もう、二度と失いたくない。俺がこの手で守れるものは、もう、あの人しかいないのだから…)
彼は音もなくその場を離れると、自室へと駆け戻った。
章2:兄と弟の、過剰な護衛合戦
翌日、雪藍が侍女たちを伴って、件の崖があるという宮廷の裏庭へ向かうと、その入り口に、完全武装の凛が待っていた。山登り用の丈夫な縄を肩に掛け、滑り止めのついた手甲と足甲を身につけている。
「り、凛様…?そのお姿は…」
呆気に取られる侍女たちに、凛は真顔で一礼した。
「これより、姉上の花摘みの儀を執り行う。周囲の安全は、俺がすべて確保した。
姉上は、ただ、あそこに咲く花を一輪、お摘みになるだけで良い」
彼が指差す先には、崖の中腹へと続く、明らかに人の手で整えられた安全な小道と、その終着点に垂らされた真新しい縄梯子が見えた。
雪藍が、そのあまりの用意周到さと過保護っぷりに苦笑いしていると、背後から、呆れと面白さが半分ずつ混じったような、聞き慣れた声がした。
「――何をしている、お前たちは」
振り返ると、そこには腕を組んだ朱華が立っていた。
「…凛。ご苦労だが、それは俺の妃だ。お前がそこまでせずとも、俺が守る」
朱華の言葉に、凛は一歩も引かず、その氷の瞳でまっすぐに見つめ返した。
「兄上。姉上をお守りするのは、弟である俺の務めです。兄上は、国の心配だけなさればよろしいかと」
「…何だと?」
朱華は、一瞬言葉に詰まるが、すぐににやりと笑う。
「ほう…。縄梯子か、感心な心がけだ。…だが、俺の妃が使うには、少し心許ないな」
朱華が指を鳴らすと、物陰から屈強な近衛兵が数人現れ、あっという間に、美しく装飾された
『屋根付きの輿』を崖の中腹まで吊り下げてしまう。
「どうだ、凛。これなら、我が妃は指一本汚さずに、花の蜜を愛でることができる」
得意げな朱華。唖然とする雪藍と侍女たち。
そして、自分の完璧な計画を上回られ、悔しそうに唇を噛む凛。
章3:手を取り合って
皇太子と、心を閉ざした少年。
雪藍を巡る、二人の男の「完璧な護衛」が、小さな崖の前で膠着状態に陥っていた。
その間に、雪藍が優しく入る。
彼女は、凛の隣に立つと、その真剣な横顔に微笑みかけた。
「ありがとう、凛。あなたのおかげで、安心してお花が摘めますわ」
そして、今度は朱華に向き直る。
「朱華様も、心配してくださってありがとう存じます」
彼女は、にっこりと、春の陽だまりのように笑った。
「…でも、わたくしが本当に欲しかったのは、縄梯子でも、輿でもないのです」
雪藍は、二人の手を、それぞれ片方ずつ取る。
「ただ、こうして、お二人の手を借りて、少しだけ怖い崖を、一緒に登ってみたかった。
…それだけだったのですよ」
その、すべてを包み込むような魔法の言葉。
凛の氷のような表情が、一瞬だけ、ふっと和らいだ。彼は顔を赤らめ、そっぽを向きながら
「…姉上が、そうおっしゃるのなら」と呟く。
その様子を見ていた朱華も、たまらないというように、声を上げて笑った。
「…やれやれ。俺の妃は、猛獣使いの才まであったとはな」
結局、大げさな縄梯子も豪華な輿も使われず、朱華が右手を、凛が左手を、それぞれ雪藍に差し出し
、三人は手を取り合って、ゆっくりと崖の中腹へと登っていった。
それは、少し歪で、不器用で、けれど、どうしようもなく温かい、「家族」の初めての共同作業だった。




