「静寂の夜、重なる魂」
章1:静かな時間、初めての問い
鎮西公との陰謀を乗り越え、初めて結ばれた、その翌夜のこと。
月光だけを灯りとした香室は、白檀の香りが深く、清らかに満ちていた。
雪藍は、朱華の胸に寄り添い、その穏やかな心音に耳を澄ませていた。昨日までの喧騒が、嘘のようだ。
「…雪藍」
朱華が、彼女の髪を梳くように指を通しながら、静かに名を呼んだ。
「お前がいなければ、俺は今ここにいない」
「朱華様こそ、お心は安まりましたか? 叔父上とのことは…きっと、お辛かったでしょう」
その優しい問いかけに、朱華は雪藍を抱く腕に、そっと力を込めた。
章2:『器』と『役目』
「なぜ雪藍は、あれほどの苦境の中でも、あれほど強くいられたのだ?」
朱華の問いに、雪藍は少しだけ間を置いて、自らの過去を語り始めた。
「わたくしは、強くなどありません。ただ、心を殺すことに慣れていただけです。わたくしの生家は、かつては名家と謳われましたが、今は没落してしまいました。その家の名を保つためだけの『器』として、自分の感情を香に託すことだけが、わたくしが“わたくし”でいられる唯一の方法だったのです」
その告白に、朱華が自らの過去を重ねる。
「…俺も同じだ。俺は『皇太子』という役目を生きるだけで、俺自身の心は空っぽだった。…お前の香に触れるまで、自分が何を感じているのかさえ、分からなかった」
二人の魂の根が、同じ孤独で繋がっていることを、互いに知った瞬間だった。
章3:初めて流す涙
その痛切な共感が、心の最後の扉を開いた。
朱華は、誰にも話したことのなかった、幼い頃に母に涙を咎められたエピソードを打ち明けた。
「皇太子たる者が、その程度のことで涙を見せるな、と。…ただ、痛かっただけなのだが」
その孤独な子供の姿に、雪藍の心の最後の壁が崩れ落ちる。彼女もまた、父に香の出来栄えではなく、それが家の何の役に立つかしか見てもらえなかった日のことを、涙ながらに語った。
これまで決して人前で弱さを見せなかった雪藍が、初めて彼の腕の中で、自分のためだけでなく、彼の孤独のためにも、声を上げて泣いた。
朱華は、その震える身体を、ただ黙って、強く、抱きしめた。
章4:ひざまずく愛、夜明けの誓い
涙が尽き、静寂が戻った香室。朱華は、雪藍の涙に濡れた頬を、慰めるように何度も指で拭う。
そのあまりの優しさが、雪藍の胸に新たな不安の影を落とした。彼女は、おずおずと、彼の腕の中から少しだけ身を引いた。
「…どうした、雪藍」
「…昨夜は、夢のようでした。けれど、目が覚めれば、わたくしはただの香女…。殿下…朱華様のおそばにいる資格など、本当はないのです。肌を重ねたからこそ、わかってしまいました。わたくしたちの間にある壁が、どれほど高く、分厚いものなのか…」
その痛切な告白に、朱華は彼女を無理に抱きしめたり、口づけたりはしない。
彼はゆっくりと、雪藍の前にひざまずいた。
見習い香女の前に、皇太子がひざまずくという、ありえない光景。雪藍は息を呑む。
朱華は、彼女の手を両手で包み込み、その指先に、まるで聖遺物に触れるかのように、そっと口づけを落とした。
「雪藍。俺にとっては、お前が俺の天だ。俺がひざまずくのは、天であるお前だけだ」
その瞳は、絶対的な真実だけを宿していた。
「資格など、俺が決める。俺が望むのは、名家の姫ではない。ただ、お前だけだ。お前のその心、その魂…それ以外に、俺が欲しいものなど何もない」
彼は、皇太子の権威ではなく、ただ一人の男としての、絶対的な愛の言葉で彼女の不安を打ち砕く。
雪藍の瞳から、今度は安堵の涙が止めどなく溢れ出した。
朱華は立ち上がると、今度こそ優しく彼女を抱きしめる。
その震える背中を優しく撫でながら、彼は涙の滴を親指でそっと拭った。
「お前の涙は、塩辛いな」
朱華はそう囁くと、涙の跡が残るその頬に、慈しむように、そっと口づけを落とす。
「…これからは、甘いものだけを流せばいい」
その言葉と共に、今度は唇が、柔らかく重ねられた。
それは情欲ではなく、互いの魂の形を確かめ合うような、どこまでも優しく、神聖な口づけだった。
唇が離れた後、雪藍は彼の胸に顔を埋め、震える声で囁いた。
「……もう、迷いません。わたくしの魂が還る場所は、この腕の中だけなのですから」
その答えに、朱華は言葉もなく、ただ、愛おしさに満ちた腕で、彼女を強く抱きしめ返した。
夜が明けるまで、二人はただ寄り添い、互いの孤独な過去と、それでも共にある未来を語り合った。
夜明けの光が香室に差し込む頃、腕の中で眠る雪藍の寝顔を見つめながら、朱華は絶対的な誓いを口にした。
「もう二度と、お前を一人では泣かせない。…お前の魂の居場所は、俺の腕の中だけだ」
その誓いは、白檀の香と共に、新しい朝の光に溶けていった。




