「芽生える忠誠、忍び寄る影」
章1:姉上と、氷の刃
雪藍の優しさに触れ、凛の心の氷は、少しずつ、しかし確実に溶け始めていた。
彼はまだ口数が少なく、笑うことはなかったが、雪藍が香室で作業をしていると、気づけばいつも部屋の隅に座り、静かにその手元を見つめているようになった。
その日の午後、雪藍は凛を連れて、宮廷の薬草園を散策していた。
「この花は、北国にしか咲かないもの。けれど、都でも花を咲かせられるよう、土を工夫して…」
雪藍が、凛の灰色の瞳を覗き込み、優しく語りかける。
凛もまた、静かにその言葉に耳を傾けていた。
その時だった。
前方から、数人の高官たちが歩いてきた。その中心にいるのは、有力な貴族の一人で、雪藍の存在を快く思っていない男だった。
男は、雪藍と凛の姿を認めると、わざとらしく眉をひそめ、聞こえよがしに供の者に言った。
「…皇太子殿下も、酔狂なことだ。妃に迎えたかと思えば、今度は謀反人の小童の世話とは。
…所詮、香女風情のなさることよな」
その侮辱の言葉に、雪藍の顔から血の気が引いた。
しかし、彼女が何かを言うより早く、隣にいた凛が、すっと一歩前に出ていた。
「……今、何と?」
凛の声は、凪いだ湖面のように静かだった。だが、その声に触れた高官の顔が、恐怖に強張る。
凛の灰色の瞳は、もはやただの少年のものではなかった。それは、獲物を前にした獣の瞳。
氷の刃のような、絶対零度の殺気を宿していた。
彼は、ゆっくりと高官に顔を寄せると、雪藍にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「姉上…。この方には、死をもって償わせましょうか?」
その、姉を護るためならば、常軌を逸することも厭わぬ狂気にも似た執着の片鱗に、雪藍は戸惑い、そして震えた。
「凛…!なりません!」
雪藍は、はっと我に返ると、凛の腕を強く掴んだ。
その腕は、年の頃に似合わぬほど、硬くこわばっていた。
遠くからその様子を見ていた朱華は、驚きに目を見開いていたが、やがて、たまらなく面白そうに、口の端を吊り上げた。
(…ほう。俺の知らぬ間に、雪藍は猛獣まで手懐けたか。面白い)
高官は、凛の放つ殺気に完全に気圧され、何も言えずに逃げるように去っていった。
章2:偽りの記憶、黒い囁き
その夜、凛は一人、宮廷の古びた物見櫓の陰にいた。
闇の中から、影のような男が一人、現れる。彼は、かつて鎮西公に仕えていた者だった。
「凛様、日中のこと、お見事でございましたな。皇太子妃への、その忠誠心…」
「姉上を侮辱する者は、誰であろうと許さない。それだけだ」
凛の冷たい言葉に、男は満足げに頷くと、さらに声を潜めて囁いた。
「…その優しき姉君の夫君こそが、貴方様のご両親を死に追いやった張本人とも知らずに…お労しいことです」
「…何?」
凛の瞳が、鋭く光る。
男は、懐から古びた書状を取り出した。
「凛様の一族は、謀反など企んでおりませんでした。ただ、その正当な血筋と権利を、皇太子殿下が恐れたのです。…これは、貴方様のお父上が、無実を訴えるために、最後に残された文にございます」
渡された書状には、見覚えのある父の筆跡で、悲痛な言葉が綴られていた。
もちろん、それは反乱分子が巧妙に偽造したものだった。
(あの女が…あんなにも優しいあの女が、俺の両親の仇の妻だと…?ありえない。だが、この父上の文は…)
凛の心は、雪藍への芽生え始めた温かい信頼と、植え付けられた偽りの復讐心の間で、激しく引き裂かれた。
男は、苦悩する凛の肩にそっと手を置き、囁きを続ける。
「我らは、凛様の真の味方。いつか、貴方様が立ち上がるべき時が来たならば、必ずや、力となりましょう…」
黒い囁きは、純粋な少年の心に、深く、そして静かに、毒のように染み込んでいった。




