「香りは心を溶かす」
章1:二つの太陽
朱華の凛に対する教育は、困難を極めていた。
庭の稽古場で、朱華が剣の型を見せる。
その太刀筋は、皇太子としての威厳と、武人としての力強さに満ちていた。
「いいか、凛。剣とは、ただの鉄の棒ではない。守るべきもののために振るう時、初めて魂が宿るのだ」
しかし、凛は木剣を握ったまま、冷めた灰色の瞳で返すだけだった。
「…型をなぞるだけなら、猿でもできます。俺に、貴方と同じ『皇太子』の剣を振れと?」
その言葉には、朱華のすべてを拒絶する、鋭い棘があった。
その夜、朱華は雪藍に、珍しく弱音を吐いた。
「…あいつの瞳は、何も映そうとしない。ただ、拒絶だけだ。俺はどうすれば…」
雪藍は、夫の大きな背中を優しく撫でた。
「…大丈夫です。氷も、毎日少しずつ陽の光を当てていれば、いつかは溶けるものですから」
その言葉に、朱華は何も言えず、ただ彼女を強く抱きしめた。
朱華は、すべてを照らし、道を指し示す、眩しい「太陽」。
そして雪藍は、ただそこにあり続け、静かに温もりを与える、穏やかな「陽だまり」。
二つの太陽は、それぞれのやり方で、心を閉ざした若獅子と向き合っていた。
章2:母の香り
凛は、静月殿の離れに与えられた自室で、一人、膝を抱えていた。
豪華な寝具も、美しい調度品も、彼の心を慰めはしない。すべてが、彼から家族と故郷を奪った、皇族からの「施し」に思えて、吐き気がした。
(…馴れ合うものか。俺は、俺のやり方で、父母の無念を晴らす…)
その時、ふと、部屋に満ちる香りに気づいた。
毎日、いつの間にか焚かれている、穏やかで、少しだけ甘い香り。
(…また、あの女の香りか。同情の匂いは、反吐が出る)
苛立ちと共に、香炉を蹴り倒してしまおうかとさえ思った。
だが、その香りは、彼の怒りをすり抜けて、心の奥の、もっと柔らかな場所に、静かに届いてくる。
なぜだろう。この香りは、ひどく、懐かしい。
凛の脳裏に、断片的な記憶が蘇る。
――それは、まだ彼が、両親に愛されていた、遠い日の記憶。
夜、悪夢にうなされて目を覚ました時。優しく頭を撫でてくれる、温かい手。
子守唄を口ずさむ、柔らかな声。
そして、部屋にいつも焚かれていた、この香り…。
「…母上…」
凛の唇から、忘れていたはずの名が、掠れた声でこぼれ落ちた。
そうだ。これは、母が、眠れぬ自分のために、毎夜焚いてくれた香りによく似ている。
あの女――雪藍が、それを知るはずがない。
これは、計算された同情などではない。ただ、純粋な、見返りを求めない優しさ。
偶然が生んだ、奇跡のような温もり。
凛は、生まれて初めて、他人の優しさに触れた気がした。
氷のように凍てついていた灰色の瞳から、一筋だけ、熱いものがこぼれ落ちた。
章3:氷解の兆し
翌日の昼下がり。
雪藍は、庭園で、侍女たちにも手伝わせず、一人で薬草の手入れをしていた。
そこへ、凛が姿を現した。
彼は、雪藍のことなど目に入らぬというように、無言でそばを通り過ぎようとする。
(…やはり、まだ…)
雪藍が、少しだけ寂しく思った、その時だった。
凛の足が、ぴたりと止まった。
彼は、雪藍の方を振り返りもせず、庭の草花を見つめたまま、ぶっきらぼうに呟いた。
「…その花は、水をやりすぎると根が腐る」
「え…?」
雪藍は、驚いて顔を上げた。
彼が、自分に話しかけてきた。棘のある言葉でも、皮肉でもない、ただの言葉を。
凛は、それ以上何も言わず、今度こそ足早に去っていった。
一人残された庭園で、雪藍は、しばらく呆然としていたが、やがて、その唇に、春の陽だまりのような、柔らかな笑みが浮かんだ。
遠くの回廊からその様子を見ていた葵が「今、凛様が、雪藍様と…!」と声を上げ、
碧葉に「しっ!」と口を塞がれている。
分厚い氷の下で、確かに、何かが動き始めた。
その小さな、しかし確かな兆しを、雪藍の心は、感じ取っていた。




