「北の使者と、夫婦の共闘」
章1:氷の使者と、皇太子の憂鬱
静月殿での穏やかな日々が続いていた、ある日のこと。
宮廷に、北の大国からの使節団が訪れたことで、
にわかに空気が張り詰めた。
使節を率いるのは、「羅刹将軍」の異名を持つ、百戦錬磨の老将軍。その眼光は鋭く、歓迎の宴でも笑み一つ見せず、皇上が差し出した美酒にさえ、ただ形式的に口をつけるだけだった。
数日後、朱華は深い溜息と共に、雪藍のもとを訪れた。
「…手強い相手だ。何を差し出しても、あの将軍の心は氷のように閉ざされたまま。交易の交渉が、全く進まない」
皇太子である彼の顔に浮かぶ、率直な焦りの色。
(…情けないな。俺はまだ、父上や重臣たちのように、腹の探り合いだけで人を動かすことができぬ。
…俺は、まだ未熟だ)
その心の声に気づかぬまま、雪藍はそっと彼のためにお茶を淹れた。
その時だった。控えていた尚宮が、翠芳からの言伝を携えてやってきた。
「妃殿下。翠芳殿より、伝言にございます。『北の羅刹将軍は、かの北国において比類なき“香”の愛好家。されど、その鼻は極上のものしか認めぬ』…とのことです」
その言葉に、朱華と雪藍は、はっと顔を見合わせた。
章2:一度目の失敗
朱華の計らいで、将軍のためだけの特別な香席が設けられた。
雪藍は、この国で最も高価とされる伽羅を選び、完璧な作法で香を焚いた。
それは、璃州国の豊かさと文化の高さを示す、見事な香りだった。
しかし、将軍は一度だけその香りを嗅ぐと、興醒めしたように鼻を鳴らした。
「…くだらぬ。都の香りは、どれも同じような匂いしかせぬな。富と技巧を誇るだけで、魂がない」
そう言って、彼は無言で席を立ってしまった。
残された雪藍は、その場に立ち尽くした。
(魂が、ない…)
妃として、初めて臨んだ公の場で、手痛い失敗。
悔しさに、唇を噛みしめる。
(…わたくしに、できるだろうか。国と国との交渉の場で、もしこれ以上失敗すれば、朱華様のお顔に泥を塗ってしまう…。妃として、初めて彼の隣に立つ、あまりにも重い務めだわ…)
章3:二人だけの作戦会議
その夜、落ち込む雪藍を、朱華は優しく抱きしめた。
「気にするな。相手が気難しいだけだ」
「いいえ、そうではございません。将軍の仰る通りです。わたくしは、ただ高価な香を焚いただけ。あの方の心を、見ていなかった…」
朱華は、雪藍の手を固く握った。
「ならば、どうする。俺の妃として、力を貸してほしい。あの将軍の心を、お前の香で開くことはできるか?」
それは命令ではなかった。対等なパートナーへの、
心からの依頼だった。
雪藍は、彼の大きな期待に胸が震えるのを感じながらも、強く頷いた。
「はい、朱華様。…もう一度だけ、機会をいただけますか」
彼女の瑠璃色の瞳に、香女としての強い光が宿る。
「必要なのは、富の香りではない。驚きと…そして、望郷の念。北国の厳しい冬と、その中で春を待つ人々の心を表現した香り。…それならば、きっと」
朱華は、妃の顔から、一人の天才的な芸術家の顔へと変わった彼女の姿に、改めて息を呑んだ。
「…分かった。すべて、お前に任せる。俺は、お前のための最高の舞台を、もう一度整えよう」
二人の視線が交錯する。それは、夫婦として初めて臨む、国の未来を賭けた共闘の始まりだった。
章4:故郷の香り、将軍の涙
数日後、再び香席が設けられた。場所は、静月殿の庭園に面した、小さな東屋。
羅刹将軍は、「また同じことの繰り返しだろう」と、厳しい顔つきで席に着いていた。
やがて、雪藍が香炉を手に、静かに現れる。
彼女が焚き始めた最初の香は、まるで凍てつく冬の空気のように、どこまでも清らかで、少しだけ寂しい「松」の香りだった。
次に焚かれたのは、「雪」。
雪藍は、特殊な鉱物を熱することで、雪解け水の匂いを再現し、厳しさの中に潜む命の気配を表現した。
将軍の眉が、ピクリと動く。
そして、最後に。雪藍は、北国にのみ咲くという、「氷原花」の香りを焚いた。
それは、長い冬の終わりに、一番最初に春を告げる、力強くも健気な花の香り。
その香りが漂った瞬間、羅刹将軍の厳格な顔が、初めて崩れた。
彼の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
―それは、まだ彼が若き武人だった頃。故郷の許嫁が、出征する彼の髪に、一輪の氷原花を挿してくれた。「この花の香りが、あなた様をお守りします」と微笑んだ彼女は、しかし、彼が戦から戻る前に、流行り病で帰らぬ人となった。以来、彼にとって春の香りは、甘い思い出と、取り返しのつかない後悔の香りだった―
彼の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……故郷の香りだ」
その掠れた呟きは、誰の耳にも届いた。
「…何十年も前に離れた、我が故郷の春の匂いがする…。見事だ、妃殿下。貴女の香は、我が心の固い氷を、完全に溶かしてしまったわい」
将軍は、深々と雪藍に頭を下げた。
その日を境に、両国の交渉は、嘘のように円滑に進んだという。
章5:勝利の夜の、熱い祝杯
その夜、静月殿に戻った二人は、初めて「パートナー」として掴んだ勝利の興奮と高揚感に包まれていた。
朱華は、雪藍を背後から抱きしめ、そのうなじに顔を埋めた。
「見事だった、雪藍。妃として、俺の隣に立つに、これ以上ふさわしい女はいない。…誇らしい、俺だけの妃よ」
「いいえ。朱華様が、わたくしを信じて、最高の舞台を用意してくださったからです。あなた様と一緒だから、わたくしは強くなれるのです」
雪藍はそう言って、彼の腕の中で振り返ると、自らその唇に口づけをした。
それは、これまでのどんな口づけとも違っていた。
ただ甘いだけでも、ただ激しいだけでもない。互いの才能への深い尊敬と、共に戦った同志としての絆が、二人を新たな次元の情熱へと駆り立てる。
「…今宵は、ただの夫と妻ではないな」
朱華は、雪藍を抱き上げたまま、寝所へと向かう。
「国を勝利に導いた、皇太子と皇太子妃の、祝宴だ」
寝台に辿り着くや、朱華は雪藍をそっと下ろし、
彼女の顔を両手で包み込んだ。
「雪藍…。今日のお前は、この俺の魂を、根底から震わせた」
彼の深い黒曜石の瞳が、雪藍の瑠璃色の瞳を射抜く。その視線は、熱く、そして圧倒的な信頼に満ていた。
「ただ美しいだけの妃ではない。俺と共に、この国を背負って立てる、唯一の女だ」
「朱華様…っ」
雪藍は、感極まって、彼の逞しい胸元に顔を埋める。
「あなた様こそ、わたくしの誇りです。あなた様が信じてくださるなら、わたくしは、どこまでも高く翔べます」
朱華は、雪藍の衣を、一枚一枚、愛おしむように、そして焦らすように丁寧に剥いでいった。
薄絹の帯が解かれ、肌蹴た胸元から、白く滑らかな肌が月光の下に現れる。
彼の指先が、その柔らかな膨らみの縁をなぞった。
「この柔らかな肌も、高潔な魂も…すべてが俺のものだと、今、この身体に刻みつけたい」
その言葉を合図に、二人の影はゆっくりと重なった。
肌と肌が触れ合う瞬間、熱い奔流が二人の間に走る。それは恋人から、そして夫婦から、この国を共に背負う、唯一無二のパートナーへと、完全に生まれ変わるための儀式だった。
その夜、二人は言葉なく、ただ互いの魂を確かめ合うように、深く結ばれた。
朱華は雪藍を強く抱きしめ、額に口づけを落とす。
「ありがとう、雪藍。…俺の隣にいてくれて、ありがとう」
雪藍もまた、彼の背中に腕を回し、その温かい胸元に顔を埋めた。
その夜の静寂は、二人の間に、新たな信頼と深い愛情が満ちた証だった。




