「殿下は名看護師?」
章1:嵐の来訪と、妃の魔法
朝、静月殿に差し込む光はいつもと同じように穏やかだったが、寝所の中の空気は張り詰めていた。
「雪藍様、しっかりとなさってください!」
「お水をお持ちしました!」
葵と菫が慌ただしく動き、碧葉が雪藍の額に浮かぶ汗をそっと拭う。当の雪藍は、熱に浮かされた潤んだ瞳で、心配そうに自分を囲む侍女たちに微笑みかけようとしていた。
「…大丈夫です。少し、身体が熱いだけで…」
「大丈夫なものですか!あんなに熱が高いのに!」
葵が半泣きで訴える。医師の診断は、先の旅の疲れが出たのだろうというものだった。
そこへ、政務に向かったはずの朱華が、文字通り嵐のように駆け込んできた。
「雪藍!」
寝台にぐったりと横たわる雪藍の姿を見るなり、彼の顔からすっと血の気が引く。
「どうしたのだ、一体…!」
「殿下、雪藍様は旅のお疲れが出たものと…。今は、ただ安静に…」
碧葉が説明する中、朱華は雪藍のそばに膝をつき、
その熱い頬にそっと触れた。雪藍が安心させるように彼の指を弱々しく握り返した瞬間、朱華の中で何かが決壊した。
彼はゆっくりと立ち上がると、絶対王者の声音で侍女たちに宣言した。
「これより、雪藍の看病は俺一人が行う。
侍女といえど、俺の許しなくこの寝所に立ち入ることを禁ずる! これは勅命だ!」
「そ、そんな無茶な!」
三人が一斉に抗議する。その時、雪藍が熱に浮かされながらも、必死に微笑んで囁いた。
「…しゅか、さま…。そんなに、思いつめたお顔を、なさらないで…」
そして、枕元にある小さな香袋を指差す。
「…そこに、気持ちを落ち着ける香が、入っております。それを、少しだけ…焚いては、いただけませんか…?」
その健気な言葉に、朱華の表情がわずかに和らぐ。
彼は侍女たちに向き直った。
「…香の準備だけは許す。それが終わったら、下がれ。我が妃の肌に触れるのも、その唇に薬を含ませるのも、この俺だけの役目だ」
そのあまりの剣幕と、隠しきれない愛情の深さに、三人は顔を見合わせ、すごすごと退室するしかなかった。
章2:皇太子の不器用な献身
寝所に二人きりになると、朱華は早速、御膳所から運ばせた粥を手に取った。
しかし、匙ですくった粥は、湯気がもうもうと立ち上っている。
「…熱いか」
彼は、子供にするように、その匙に「ふー、ふー」と必死に息を吹きかけ始めた。国を動かす皇太子の、あまりにも不器用で愛おしいその姿に、雪藍は熱でぼんやりする頭で、思わずくすりと笑ってしまう。
「…うむ、毒はない」と自分で一口味見すると、満足げに頷いた。
「それに、美味だ。さあ、雪藍、あーん、だ」
雪藍は恥ずかしがりながらも、差し出された粥を素直に口に含んだ。
次に、苦い薬湯を飲ませようとすると、雪藍は子供のように顔をしかめて首を振る。
朱華は一瞬困った顔をしたが、すぐに悪戯っぽく笑うと、彼女の耳元で囁いた。
「これを飲んだら、褒美をやろう。……お前が望むだけの、甘い口づけをな」
「…っ」
その言葉に、雪藍は顔を真っ赤にして、観念したようにこくりと薬湯を飲み干した。
手ぬぐいが温くなっていることに気づいた朱華は、替えようとする。しかし、水を張った盆に手ぬぐいを浸し、剣を握る力で、力任せに絞ってしまった。びしゃびしゃのままの手ぬぐいを雪藍の額に乗せようとして、「あ…」と慌てる。
「…すまない。剣を握るのとは、勝手が違うな…」
その子供のような言い訳に、雪藍はふふっと笑みを漏らした。
その頃、寝所の外では。追い出された侍女たちが、
襖の隙間から中の様子を固唾をのんで見守っていた。
「きゃーっ!殿下が!殿下が雪藍様のお粥に息を吹きかけておられますー!」
「葵、静かになさい!…ですが、まあ…なんと微笑ましい…」
「まるで恋物語の挿絵のよう…尊すぎて、息ができません…」
三者三様のリアクションが、静かな廊下に小さく響いていた。
章3:理性との戦い、聖なる衣替え
雪藍が汗で衣を濡らしていることに気づいた朱華は、自らそれを着替えさせようと決意した。
「少し、身体を起こせるか」
優しく声をかけ、汗でしっとりと肌に張り付いた薄絹の帯を、彼はゆっくりと解いていく。
しかし、衣がはだけ、自分がつけた愛の痕が残る白い肌が露わになった瞬間、彼の動きが完全に止まった。
(…駄目だ。こいつは病人だ。だが…病に浮かされたその顔も、熱に潤んだ瞳も、俺を狂わせるには十分すぎる…!)
看病すべきという理性と、愛しい妻を前にした男としての本能が、彼の心の中で激しくせめぎ合う。
彼は雪藍の耳元に、自分に言い聞かせるように、苦しげに囁いた。
「…雪藍。お前は、本当に俺を罰するために天から遣わされた天女だな…。病の床でさえ、俺の理性を焼き切ろうとするのだから…」
その声に反応するように、雪藍が夢うつつに彼の名を呼んだ。
「しゅか、さま…」
その無防備な呟きに、朱華の心臓は限界を迎える。
彼は天を仰ぎ、大きく深呼吸すると、震える手で、
しかしどこまでも優しく、雪藍の身体を清め、新しい衣へと着替えさせた。
襖の外では、中のただならぬ衣擦れの音に、侍女たちの妄想が暴走していた。
「ま、まさか…!こんな時に…!?」
「きゃーっ!でも、殿下ならありえるかも…!」
「お二人とも、どうかお心を確かに…!」
三人は真っ赤になって、その場に崩れ落ちそうになっていた。
章4:一番の薬と、褒美の口づけ
夜を徹しての看病の末、翌朝、雪藍の熱はすっかり下がっていた。
久しぶりにすっきりと目覚めた彼女が見たのは、寝台の脇で、彼女の手を握ったまま、疲れ果てて眠り込んでいる朱華の姿だった。
彼の顔には深い疲労の色が浮かんでいる。いつも整えられている髪も、少し乱れていた。彼がどれほど必死に、そして愛情を込めて看病してくれていたのかを悟り、雪藍の瞳から一筋の涙がこぼれる。
彼女はそっと、眠る彼の髪を優しく撫でた。
そこへ、おずおずと侍女たちが様子を見に入ってくる。
そして、その穏やかで愛に満ちた光景に、三人は言葉を失った。
葵は口に手を当て、碧葉はそっと涙を拭い、そして菫が、震える声で囁いた。
「……どんな名薬よりも、殿下のこのお姿こそが、雪藍様にとって一番の薬だったのですね…」
侍女たちが静かに退出した後、雪藍は朱華の穏やかな寝顔を見つめる。そして、昨夜彼が自分にしてくれたように、その疲労の滲む額に、そっと、慈しむような口づけを落とした。
(…いいえ、朱華様。わたくしにとっての一番の薬は、あなた様です。…けれど、あなたがわたくしのために流してくださった汗は、どんな宝石よりも尊いもの。だから、これは、わたくしからの、ほんのささやかな褒美です)
その言葉に、雪藍は心からの笑みを浮かべ、眠る夫の手に、そっと自分の頬を寄せた。




