「親たちの食卓」
章1:水面下の攻防
その夜の食事会は、皇后・玲瓔が「たまには親子四人で、水入らずで話がしたい」と設けたものだった。
場所は後宮の奥にある、庭園に面した静かな殿舎。
格式張った大広間ではないが、皇上と皇后の御前とあって、雪藍は朝からずっと落ち着かなかった。
「妃よ、緊張せずともよい。今日はただの家族の集まりだ」
皇上の穏やかな言葉に、雪藍は「はい…」と頷きながらも、背筋を伸ばす。
(作法を間違えてはならない。朱華様に、恥をかかせては…)
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、机の下で、
朱華の手がするりと伸びてきて、彼女の手を固く握った。
「っ…!」
雪藍の肩が小さく跳ねる。
慌てて手を引こうとするが、朱華は悪戯っぽく笑みを浮かべ、さらに指を絡めて離さない。
雪藍は平静を装い、熱くなる頬を必死で隠した。
その一連の攻防を、対面に座る皇后はすべて見ていた。
彼女は優雅に扇で口元を隠し、その瞳には明らかな笑みが浮かんでいる。
皇上は気づかぬふりをして、黙々と吸い物を口に運んでいた。
章2:愛情の暴走
宮廷の料理人が腕を振るった見事な川魚の焼き物が、香ばしい匂いを立てて運ばれてくる。
「うむ、見事な塩加減だ」と皇上が満足げに頷く。
すると朱華が、悪びれもせず言い放った。
「確かに美味ですが、先日雪藍が作ってくれた干し肉の粥の方が、百万倍は美味でした」
「しゅ、朱華様っ!」
突然、自分の料理を絶賛され、雪藍は焦って凍り付く。
皇上の箸がぴたりと止まり、皇后はついに堪えきれず、扇の陰で肩を震わせた。
朱華が何かを食べた拍子に、その口の端に、艶やかな飯粒がひとつ、ちょこんと付いた。
それを見つけた雪藍は、これまでの癖で、
咄嗟に「朱華様、ついております」と、自分の指で彼の口元をそっと拭ってしまった。
――しん。
場が静まり返る。
雪藍は、自分が今、皇上と皇后の御前で、皇太子の口元を指で拭うという、あまりに無作法で親密すぎる行為をしてしまったことに気づき、さっと血の気が引いた。
その時、皇上と皇后の視線が一瞬だけ、交わった。
皇上の瞳には(やれやれ、うちの息子は…)という呆れ。
皇后の瞳には(まあ、あなた様も昔は…)という悪戯っぽい光。
皇上は、ふいと視線を逸らし、皇后は扇で口元を隠して、小さく肩を揺らす。その一瞬の無言のやり取りに気づいた者は、誰もいなかった。
「も、申し訳ございません…!あまりに無作法なことを…!」
と、今にも泣き出しそうに震える。
朱華が「俺がつけたのが悪いのだ」と庇おうとした、その時だった。
章3:父と母の顔
「ふふっ…あはは!」
沈黙を破ったのは、皇后の鈴を転がすような笑い声だった。
「良いではありませんか。微笑ましい」
彼女は楽しげにそう言うと、隣に座る皇上へと悪戯っぽく視線を向けた。
「まあ、陛下。思い出しますわね、我らが若かった頃を。陛下も、わたくしが好物だと知るや、夢中になって木の実を採ってくださった夜が…」
「こ、こほん!」
皇上が、顔を背けながら、わざとらしく大きな咳払いをした。
「そ、そのようなことは、なかったはずだ…!昔の話をいたすな!」
その耳が、かすかに赤く染まっているのを、雪藍は見逃さなかった。
皇后は雪藍に向き直ると、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「朱華、お前がこれほど誰かに心を許し、ただの男の顔をしているのを、わたくしは初めて見ましたよ。…雪藍、これからも、この融通の利かぬ息子の世話を、よろしく頼みますね」
「もったいないお言葉でございます…」
最後に、皇上が腕を組み、厳しい顔のまま口を開いた。
「……朱華。皇太子としての威厳は保て」
そして、その視線を雪藍へと移す。その瞳は、驚くほどに優しかった。
「……だが、妃よ。これからも、この愚息をよろしく頼む」
(…やれやれ。本当に、手がつけられぬほど、腑抜けた顔をしおって。…だが)
皇上は、雪藍の隣で、見たこともないほど穏やかに笑う息子の顔を、そっと盗み見た。
(…あいつが、あのような顔で笑うのを、初めて見た)
それは、父親としての、不器用で最大の愛情表現だった。
安堵と喜びで涙目になる雪藍の手を、今度は机の上で、堂々と朱華が握る。
それを見た皇上が、大きなため息を一つだけついた。
章4:家族の証
食事が終わり、和やかな空気が流れる中、皇后がすっと立ち上がり、雪藍のそばへ寄った。そして、自らの腕につけていた、小さな翡翠の腕輪を、そっと雪藍の腕にはめてあげる。
「これは、わたくしが嫁いだ時に、先代の后からいただいたもの。…これからは、あなたがこれを受け継ぎなさい。ようこそ、私たちの家族へ」
その温かい言葉と、ひんやりとした腕輪の感触に、雪藍は驚きと感動で、ただ静かに涙を流すことしかできなかった。
朱華は、その光景を、どうしようもないほどの愛おしさに満ちた瞳で見守っていた。
赤面しながらも、心からの幸福に包まれる、そんな夜だった。




