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「雨音は愛の調べ」

章1:憂鬱な雨と、侍女たちの作戦会議


その日は朝から、静かな雨が降り続いていた。

静月殿の窓辺で、雪藍は侍女たちと共に、雨に濡れる庭を眺めていた。


「はぁ…」と、葵が大きなため息をつく。


「一日中雨だと、なんだか心まで湿ってしまいます

ね。それに、殿下は朝からずっと書庫に籠りっきりだと…」


碧葉が心配そうに眉を寄せる。


「ええ。西域との交易に関する、難しい書簡が山積みになっているとか。最近、お疲れのご様子でしたものね」


菫は両手を胸の前で組み、うっとりとした、それでいて憂いを帯びた声で囁いた。


「…殿下の眉間の皺が、この空模様のように深くなられていなければよいのですが…」


三人の言葉に、雪藍はそっと立ち上がった。


「…わかりました。私に、考えがあります」


彼女の瑠璃色の瞳に、悪戯っぽい、それでいて深い愛情の光が宿る。


「朱華様のお邪魔にならぬよう…静かな魔法を、かけてさしあげましょう」


その言葉に、侍女たちの顔がぱっと輝いた。


「魔法!でしたら、わたくしが殿下の執務室までの見張りを!」と葵が胸を叩く。


「葵、あなたは騒がしいから駄目です」と碧葉がたしなめ、「…雪藍様、もし何かお咎めがあれば、わたくしたちが殿下に嘆願いたします」と固い決意を見せる。


菫は、そっと美しい香炉を差し出し、「この香炉が、雪藍様の想いを一番美しく届けられますわ…」と微笑んだ。


雪藍は、心強い共犯者たちににっこりと微笑み返した。


章2:心をほどく魔法の香り、『雨だれの静寂』


静月殿の奥にある書庫は、雨音と、紙が擦れる音だけが響く、張り詰めた空間だった。

朱華は山積みの書簡を前に、眉間に深く皺を刻み、こめかみを指で押さえていた。


そこへ、雪藍が音もなく入室する。

彼は気づかない。雪藍は声をかけず、部屋の隅にある、菫が選んでくれた香炉へと向かった。

彼女が取り出したのは、特別に調合した香。


(…この香の名は、『雨だれの静寂しじま』。どうか、朱華様の心の中の喧騒を、この静かな雨音が洗い流してくれますように…)


心を鎮める白檀を基調としながらも、朱華を思い出させる沈丁花の香りをほんの少しだけ隠し、そして、雨の日の憂いを晴らすための、爽やかな柑橘の香りを一差し加えたもの。


やがて、細く立ちのぼった煙が、部屋の空気をゆっくりと変えていく。

張り詰めていた朱華の肩の力が、ふっと抜ける。眉間の皺が和らぎ、彼は無意識に、深く、心地よい息を吸い込んだ。

そして、ようやく顔を上げ、部屋の隅に佇む雪藍の姿に気づく。


「……雪藍か。いつの間に…。この香りは…?」


その声は、驚きと、明らかな安堵に満ちていた。

雪藍は優しく微笑む。


「政務のお邪魔にならぬよう、心を静める香を…。

お嫌でしたか?」


「嫌なものか」


朱華は筆を置くと、手招きをした。


「お前の香に救われた。……だが、一番の薬は、お前自身だ。…こっちへ来い」


章3:雨音を聴きながら、未来の約束


雪藍がそばに寄ると、朱華は彼女の腕を引き、書簡が広がる机の前で、今度は正面から向き合うように、自分の膝の上へと座らせた。


「…香だけでは足りないな。お前の唇から、直接、力を貰わねば」


彼はそう言うと、驚く雪藍の唇を、深く、蕩けるように貪る。薬を味わうかのように、何度も、角度を変えて…。


「…ああ、効くな。どんな高価な薬よりも、お前の肌の味の方が、よほど…」


口づけの後、朱華は満足げに息をつくと、雪藍を後ろから抱きしめる形に座らせ直した。


「よし。これで、もう少し頑張れそうだ」


彼は腕の中に雪藍を抱いたまま、再び書簡へと手を伸ばした。

しかし、数分も経たぬうちに、彼は大きなため息をついて、筆を放り出した。


「…駄目だ。無理だ」


雪藍が「朱華様…? やはり、お邪魔でしたか…」と心配そうに顔を上げると、彼は、たまらないというように、彼女のうなじに顔を埋めた。


「ああ、邪魔だ。…お前がここにいると、書簡の文字が、すべてお前の名前に見えてくる。…これでは、仕事にならん」


その嬉しい悲鳴のような言葉に、雪藍は幸せを噛みしめる。

やがて、雪藍は彼の温もりを感じながら、近くにあった植物図鑑をそっと開いた。


外では雨が降り続いている。書庫の中は、香の煙と、時折ページをめくる音、そして窓を打つ雨音だけ。会話はない。けれど、これ以上ないほどに、二人の心は満足りていた。


どれほどの時が経っただろうか。

雪藍の意識が、暖かな香りと、彼の体温と、心地よい雨音に蕩かされて、とろとろと微睡みの中に沈んでいく。こくり、と彼女の頭が朱華の胸に寄りかかった。


朱華は書簡から目を離し、腕の中で安らかな寝息を立てる雪藍を見つめた。

その無防備な寝顔に、彼の胸はどうしようもないほどの愛おしさで満たされる。


彼の視線が、雪藍が開いたままにしていた植物図鑑のページに落ちる。そこには、雲の上にしか咲かないという、珍しい高山植物の絵が描かれていた。

朱華は静かに筆を取ると、一枚の紙片に**「次の旅では、これを探しに行こう」**と書きつけ、そっとそのページに挟み込んだ。


彼はそっと書簡を置くと、彼女が寒くないように、近くにあった膝掛けを優しくかけた。

そして、その白い額に、祈るように、そっと口づけを落とす。


(国を治めることよりも、お前の寝顔ひとつを守ることの方が、よほど難しく、そして尊い)


しばらくして、雪藍がふと目を覚ました。


「…すみません、私、眠ってしまって…」


すると、朱華が、すべてを知っているというように、にやりと笑いかける。


「ああ。随分と、楽しそうな夢を見ていたな。…あの雲の上の花でも、見つけたか?」


「え…!?」


(なぜ、私が見ていたページを…?)と、顔を真っ赤にする雪藍。

朱華は、その反応を楽しみながら、彼女の耳元で囁いた。


「なんでもない。…さあ、もう夕刻だ。夕餉にしよう。お前が夢で見た花の代わりに、もっと甘いものを食べさせてやる」


その言葉に、雪藍は幸せそうに微笑むしかなかった。

書庫の中は、雨音と、香の余韻と、そして二人の穏やかな笑い声だけが、響いていた。

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