「魂の香り、愛の追跡」
章1:残された文、皇太子の決断
静月殿の寝所に、主を失った白梅の香りが冷たく漂っていた。
一度は裏切られたという怒りが、黒い炎となって胸を焼く。だが、文に滲む涙の跡と、嵐の夜に交わした彼女の誓いが、彼の心を叩いた。
「…そうか。俺が、愚かにも彼女を信じきれなかったばかりに、一人で…行かせてしまったのか」
すぐさま開かれた御前会議で、臣下たちは口々に
「皇太子妃の出奔は国家の恥!」と騒ぎ立てた。
その喧騒を、朱華の一喝が切り裂く。
「黙れ。我が妃を疑うことは、俺の慧眼を疑うことと同義。彼女は民を救うために発ったのだ!俺は行く。我が妃を迎えに。そして、彼女の使命を、夫として、この国の皇太子として、完遂させる。これこそが、璃州国の誇りだ!」
章2:砂漠の再会、王と王
砂漠の太陽は、容赦なく肌を焼いた。
朱華は、雪藍が残した香袋のかすかな香りを頼りに、ただひたすらに馬を走らせた。
数日が過ぎた夜、砂丘の向こうに、小さな灯りを見つける。
雪藍の目の前で立ち止まった朱華は、怒りも、詰問も、何一つ口にしなかった。
ただ、ひどく掠れた、愛おしさに満ちた声で囁いた。
「…迎えに来た、雪藍。遅くなって、すまなかった」
その一言に、雪藍の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
朱華はたまらず彼女を強く抱きしめる。
「もう、大丈夫だ。俺がいる」
ようやく腕をほどくと、朱華は初めてカイへと向き直った。
「王子カイ。話は雪藍から聞こう。我が妃の慈悲の心に感謝する。…そして、これよりは俺も力を貸そう」
章3:三人の共闘、魂の夜明け
伝説の香「魂の夜明け」の調合は、困難を極めた。
何度試しても、香は魂を揺うほどの力を宿さない。雪藍の顔に、焦りと疲労の色が濃くなっていく。
「…だめです。わたくしの力が、足りません…」
弱音を吐いた彼女の肩を、背後から大きな手が優しく包んだ。朱華だった。
「一人で背負うな。俺がいるだろう」
朱華の愛が、最後の香料だった。
完成した香が焚かれた瞬間、天幕の中に、夜明けの光のような、温かく、そして清らかな芳香が満ちた。
香を受け取ったカイは、朱華へ深々と頭を下げた。
「この御恩は、我が国が永遠に忘れぬ。……妃殿下は、あなたにこそふさわしい」
そして彼は、雪藍に向き直り、小さな革袋を差し出した。
「妃殿下。これは、香女としての貴女への、心からの敬意の証だ」
中には、砂漠でしか咲かぬという、純白の月の花の押し花が、大切に収められていた。
「…正直、妃殿下を我が国へ連れて帰りたいと、本気で思ったこともあった。だが、貴殿の愛の深さには、敵わぬな。…我が友、朱華。我が国の危機を救ってくれたこと、重ねて礼を言う。そして、いつか、お前たちの国に危機が訪れたならば、今度は俺が、砂漠の民を率いて必ず駆けつけよう」
カイはそれだけを告げると、砂漠の闇へと去っていった。
章4:絶対的な信頼、愛の夜
満天の星の下、ようやく二人きりになった天幕の中。
朱華は、雪藍の頬にそっと触れた。
「…もう、二度とお前を疑わない。お前の魂が、香と共にあるように、俺の魂は、お前と共にある」
「信じてくださって、ありがとうございます…」
雪藍の瞳から、安堵の涙がこぼれる。朱華は、その涙を唇で優しく拭った。
「お前が俺の妃だ。この世のどんな宝石よりも、どんな星よりも、お前が美しい」
彼は、一枚一枚、宝物を扱うように丁寧に衣を剥いでいく。
月光に照らされた雪藍の肌に、彼はひざまずき、その足の甲に、祈るように口づけを落とした。
「お前と出会うまで、俺の世界は白と黒だった。だが、お前が教えてくれた。この世界が、どれほど豊かな色と香りに満ちているかを…」
彼は彼女の肌のすべてを慈しむように、全身に口づけを落としていく。
雪藍もまた、彼の衣を脱がせ、戦でついた彼の背中の傷跡に、そっと唇を寄せた。
「この傷が、あなたが国とわたくしを守ってくださった証…。愛おしいです…」
その言葉に、朱華はたまらず雪藍を深く抱きしめる。
「雪藍…もう、言葉はいらない。お前の全てで、俺を満してくれ」
「はい…朱華様…。わたくしの全てで、あなたを癒やします…」
砂漠の静かな夜、満天の星の下で、二人の影はゆっくりとひとつに重なった。
それは、これまでのどの夜よりも穏やかで、満ち足りた交わりだった。
疑いも嫉妬も、すべてが砂漠の砂に溶けて消え、そこには絶対的な信頼と、ただひたすらに慈しみ合う二人の魂だけが存在した。
嵐の後の、どこまでも穏やかで優しい、光に満ちた夜明け。
「…お前は、本当に、俺を駄目にする天才だな」
その声は、呆れながらも、どうしようもないほどの幸福に満ちていた。
砂漠の星空の下、二人の魂は、ようやく完全な一つとなったのだった。
章5:帰路、そして我が家へ
砂漠の空が白み始め、地平線が黄金色に染まる頃。
二人は、帰路についていた。行きとは違い、一つの大きなラクダの背で、雪藍は朱華の胸にすっぽりと身体を預けている。
彼女が涙ながらに都を去った夜とは対照的に、その表情は穏やかな幸福に満ちていた。
「朱華様、見てください。夜明けです」
「ああ。だが、お前の笑顔の方が、よほど眩しい」
朱華は彼女の髪に口づけ、腕の力を強めた。故郷は、もうすぐそこだった。
静月殿の扉が開かれた瞬間、三つの影が駆け寄ってきた。
「雪藍様―――っ!」
碧葉、葵、菫だった。三人は、主の無事な姿を見るなり、わっと泣き崩れた。
「もう、どこへも行かないでくださいませー!」
葵が子供のようにわんわんと泣きじゃくりながら、
雪藍の腰にしがみつく。
「本当に…本当に、ご無事で…ようございました…」
碧葉も袖で目元を拭い、
菫は「ああ…お二人のお姿が、あまりに尊くて…」と、その場で崩れ落ちそうになっている。
その光景に、雪藍は涙を浮かべながらも、心からの笑みを浮かべた。朱華もまた、その温かい光景に、穏やかに目を細める。
「ただいま戻りました。…我が家へ」
その言葉は、朱華にだけ聞こえるほどの小さな声だったが、確かに、ここが彼女の帰る場所なのだと告げていた。




