「毒を愛に変える夜」
章1:果たされる約束、すり替えられた香
春祭の夜は、無数の灯籠と人々の熱気で、昼間よりも明るく輝いていた。
広間では厳かな儀式が執り行われ、雪藍は香女として、他の女官たちと共に末席に控えている。
けれど、彼女の心は目の前の儀式にあらず、ただ一点に注がれていた。
(朱華様は、どこに…)
祭礼が始まってから、まだ一度もその姿を見ていない。東屋での、あの熱を帯びた瞳と、触れ合う寸前の唇の記憶が蘇り、心臓が甘く痛んだ。
その時、ふと、懐かしい香りを感じた。彼女だけが知る、朱華が纏う沈丁花と白檀の香り。
視線を巡らせると、広間の喧騒から少し離れた、月光が差し込む回廊の柱の陰に、彼が立っていた。
こちらを、まっすぐに見ていた。
目が合った瞬間、彼は小さく頷くと、すっと奥へと姿を消す。
(…来て、ということ…?)
雪藍の胸が、期待と不安で激しく高鳴る。彼女は誰にも気づかれぬよう、そっと席を立つと、彼の後を追った。
人々の声が遠ざかる、静かな回廊。
その突き当りで、朱華は待っていた。
雪藍が息を切らして駆け寄ると、彼はためらうことなく彼女の腕を掴み、柱の陰へと引き寄せた。
「しゅ、朱華様…!」
「言ったはずだ、雪藍」
彼の黒曜石の瞳が、至近距離で彼女を射抜く。
「……もう、躊躇わないと」
その言葉と共に、唇が強く塞がれた。
東屋で寸断された、あの時の続き。いや、あの時よりもずっと深く、激しく、互いの渇きを癒すような口づけだった。雪藍は驚きに目を見開いたが、すぐに彼の首に腕を回し、そのすべてを受け入れていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
名残惜しそうに唇が離れた時、雪藍ははっと我に返った。
「朱華様…!申し訳ありません。ですが、今、お伝えせねばならないことが…」
朱華は、まだ熱の残る瞳で彼女を見つめる。
「俺との口づけより、大事なことか?」
「はい。…おそらくは、朱華様の、お命に関わることでございます」
その言葉に、朱華の表情が険しくなる。
雪藍は、先日、師より準備を任されて以来、ずっと胸に抱いていた違和感――あの豪奢な香壺に潜む、不自然な香りの歪みと、拭い去れぬ不安について、切迫した声で語り始めた。
話を聞いた朱華は、
すぐに「分かった。二人で解き明かすぞ」と彼女を書斎へ導こうとする。
しかし、雪藍は静かに首を振った。
「いいえ、朱華様。今宵のあなたは、皆の中心にいなくてはなりません。わたくし一人にお任せください」
彼女は一人、控えの間へと戻る。問題の香壺を前に、彼女は葛藤する。
(この香り、やはりおかしい…けれど、今さら私が異を唱えても、誰も信じてはくれないだろう。下手をすれば、儀式を妨害したとして罰せられる…)
彼女が迷っていると、広間から、春祭の成功を祝う人々の華やかな歓声が聞こえてくる。その中心には、皇太子である朱華様がいらっしゃるはずだ。
その声を聞いた瞬間、彼女の中で何かが決壊する。
(このお声を守るためなら、この方が生きる未来を守るためなら、わたくしの命など…!)
意を決した彼女は、誰にも見られていないことを確認すると、震える手で、予備として用意されていた清浄な香の入った壺と、問題の香壺を、瞬く間にすり替える。
そして、危険な本物の香壺を、自分の荷の中に深く隠す。
すり替えを終えた直後、師匠の翠芳が「雪藍、どうしました?」と戻ってくる。雪藍は平静を装い、
「いいえ、何でもございません」と微笑む。
だが、彼女の胸のうちは、愛する人を守るための大罪を犯したという、甘美な恐怖に打ち震えていた。
章2:二人だけの調査、暴かれる毒
儀式が滞りなく終わった後、雪藍は朱華の書斎へと急いだ。
すり替えた、本物の香壺を手に。
「これです、朱華様」
朱華が見守る中、雪藍は慎重に蓋を開け、中にあった焚きかけの香木と、底に隠されていた小さな巻物を取り出した。燭台の灯りが、巻物に記された奇妙な墨の濃淡を照らし出す。
彼女の指が紙面をなぞるが、すぐに眉を寄せた。
「これは……一見、ただの染みのように見えますが」
雪藍は巻物を光にかざし、目を細めた。
「墨の濃淡に規則性がある。…これは、漢字の筆順と結びつけた、巧妙な暗号…!」
彼女は別の紙に試し書きを始め、筆画の強弱と濃淡を、特定の香料を示す符号として解読していく。
やがて、そのパターンが毒草と禁制の薬物の配合を指すことを突き止めた。
「やはり……これは猛毒となる配合です。香の知識を悪用した、巧妙な毒の配合表でした」
書斎の空気が凍りついた。もし、雪藍が気づか
なければ。もし、あの香が祭壇で焚かれていたら。
「君の勘は正しかった」
朱華は背筋が凍るのを感じ、雪藍の肩にそっと手を置いた。
章3:墨痕が示す裏切り者
「ですが、これほど巧妙な計画、必ずどこかに痕跡を残しているはずです」
雪藍は書斎の奥、埃を被った古い書簡の束から一通を引き抜いた。それは、祭礼の進行について記されたものだった。
「こちらも同じ細工が…」
雪藍は息を呑む。
「行間の微細な記号が、祭礼当日の詳細な動線と、毒を仕込む場所と時刻を示していました。狙いは、祭壇の香壺。私があの香をすり替えた、まさにその場所です」
「その筆跡を見せてくれ」
朱華が凝視する書簡には、止めや払いに独特の力が籠る、見慣れた筆跡が記されていた。
「この筆跡には、特有の癖がございます」
雪藍は声を潜める。
「鎮西公のものに酷似しております」
鎮西公──朱華の叔父であり、最大の政敵。しかし、模倣の可能性もあり、これだけでは決定的な証拠にならない。
絶望的な状況。その時、雪藍は思い出す。
「以前、祭礼の準備で鎮西公の私邸を訪れた際、側近の一人──名を柳玄と申す者が、香壺の調合を監督していました。その瞳に、良心の呵責が揺れているのを、わたくしは見ました。…彼ならば」
朱華はその言葉に、最後の望みを託した。
章4:揺れる忠誠、命がけの賭け
朱華は腹心の部下を使い、柳玄との密会を極秘に手配した。
最初の密会は、その翌々日の夜。都の外れにある、廃寺だった。柳玄は、朱華の呼び出しに応じたものの、その顔は恐怖に青ざめていた。
「私にはできません! 鎮西公様を裏切ることなど…! 私には家族が…!」
雪藍は一歩前に出て、彼の良心に語りかけた。
「柳玄殿。あなたは、この国の未来に毒を盛るお方ではないはずです。わたくしには、分かります」
その言葉に、柳玄の瞳が激しく揺れる。
朱華が、絶対的な約束をした。
「君と君の家族の安全は、この朱華が皇太子の名において保証する。新しい身分と、不自由ない暮らしを約束しよう」
柳玄は心を激しく揺さぶられ、
「…三日だけ、お時間をください」と告げて去る。
その三日間、柳玄は眠れぬ夜を過ごした。家の寝間で眠る幼い息子の顔を見つめる。その無垢な寝顔が、彼の心を千々に引き裂いた。
(この子の笑顔を失いたくない…。だが、あの方の毒を許せば、この国そのものが滅びるやもしれぬ…。そうなれば、この子の未来も笑顔も、すべて灰燼に帰すのだ…)
彼は、息子が誇れる父でありたいと、命がけの裏切りを決意した。
約束の夜。覚悟を決めた柳玄が現れ、鎮西公の罪を記した完璧な証拠――帳簿の原本と密書の数々を、二人に託した。
「…どうか、雪藍殿。この国を、殿下をお頼み申す」
朱華の部下が、その場で柳玄とその家族を保護し、安全な隠れ家へと移した。
章5:対決、暴かれる野心
完全な証拠を手に、朱華と雪藍は夜更けの広間で鎮西公と対峙した。
「叔父上。これ以上、策を弄して国を乱すつもりか」
「証拠でもあるのか」
雪藍が、柳玄から託された帳簿を静かに差し出す。
「これは、偽りなどではございません。貴方様の側近である柳玄殿が、良心の呵責に耐えかね、命がけで我々に託してくださったものです」
その言葉を聞いた瞬間、鎮西公の顔色が変わった。
「柳玄だと? あの男が……裏切り者が……!」
追い詰められた彼は、隠していた野心を剥き出しにする。かつて翠芳が雪藍に警告した、あの野心を宿した瞳の光が、今は狂気を帯びていた。
「朱華…貴様には分かるまい。今の皇上は穏やかすぎる。その優しさが国を弱くするのだ!力こそが正義!俺ならば、この国をもっと強く、豊かにできる!病弱であった兄ではなく、俺こそが皇位にふさわしかったのだ!」
鎮西公は、憎悪に満ちた目で雪藍を睨みつけた。
「…そして、あの香壺さえ、あのまま焚かれていれば…!貴様のような小娘の勘働きさえなければ、お前は今頃、静かに死を迎え、玉座は俺の手に渡るはずだった! 全ては完璧だったのだ!」
叫びと共に、鎮西公は袖から短剣を抜き、朱華に襲いかかった。
雪藍を背後にかばいながら応戦する朱華だが、守るものがあるがゆえに、その動きはわずかに鈍る。鎮西公の捨て身の刃が、朱華の肩を浅く切り裂いた。
「朱華様…!」
雪藍の頭は真っ白になった。
朱華様が、自分の目の前で傷つけられた。助けなければ。いや、待て。わたくしのような見習い香女が、皇族同士の争いに介入するなど、万死に値する大罪だ。
(畏れ多い…!)
恐怖が身体を縛る。
だが、それよりも強く、胸を焼く想いがあった。
(でも、死なせはしない! 私が、愛する人を、守る!)
その瞬間、雪藍が動いた。
彼女は懐から、師から護身術として渡された小さな香袋を取り出すと、その中身――強い刺激を持つ白胡椒の粉末を、躊躇なく近くの燭台の炎へと投げ入れた。
パチパチと音を立てて弾けた粉末は、目にも鼻にも突き刺さる、強烈な煙となって広がる。
「ぐっ…! 小賢しい真似を…!」
煙に怯んだ鎮西公の体勢が、一瞬だけ崩れる。
朱華はその好機を逃さなかった。
一気に懐へ踏み込むと、最小の動きで鎮西公の剣を打ち払い、その喉元に切っ先を突きつけた。
剣が宙を舞い、地面に落ちる。駆けつけた兵たちが、抵抗をやめた鎮西公を押さえ込み、重い鉄鎖がその両腕を縛った。
章6:勝利の夜、結ばれる魂
夜の宮廷は深い静寂に包まれ、燈火は朱色の影を揺めかせる。祭礼の喧騒が遠く去り、回廊の石畳を踏む足音だけが、二人の高鳴る心拍に呼応していた。
朱華は雪藍の手をそっと握り、肩を並べて歩く。
緊張と安堵、そして甘く熱い余韻が静かに漂う。
「雪藍……君がいなければ、私は……そして柳玄の勇気も無駄になっていた」
朱華の声は低く、夜の空気に溶け込むように震える。
「朱華さま……私も……怖かったけれど、そばにいられて……柳玄殿の覚悟も、私を支えてくれました」
雪藍の声はかすかに震え、頬は紅く染まる。指先が朱華の手をしっかり握り返す。
沈丁花の香が二人を柔らかく包み込む。
回廊の奥、朱華の自室前。
祭礼の余韻もまだ残る夜、静寂が支配していた。
雪藍が扉の前に立つと、護衛の一人が額に力を入れて立ちはだかる。
「殿下、この方の入室は……許可できません」
その言葉は、雪藍の胸に氷の楔のように突き刺さった。そうだ、これが現実なのだ。いくら心を寄せ合っても、わたくしとあの方の間には、決して越えられぬ身分の壁がある。護衛の言葉は正しい。
妃でもないわたくしが、殿下の寝所に入るなど…。
雪藍は一瞬怯み、その場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
だが、その沈黙を破ったのは、朱華の低く強い声だった。
「よい。私がこの者の入室を許可する――異議は認めぬ」
護衛は一瞬ためらうが、朱華の鋭い視線に抗えず、深く頭を下げる。
雪藍はほっと息を吐き、胸の奥で高鳴る鼓動を感じながら、朱華の自室へと足を踏み入れた。
扉が静かに閉まると、外界の喧騒は遠く消え、夜の静寂だけが二人を包む。
朱華は雪藍の手を取り、ゆっくり視線を合わせた。
「雪藍……ここは俺の私室だ。誰の目も、耳も届かぬ。…ようやく、本当の意味で二人きりになれたな」
雪藍は頬を赤く染め、かすかに震える声で答える。
「はい……朱華さま…」
朱華は雪藍の顎に指をかけ、熱に潤む瞳を覗き込む。逃れようのない視線に射抜かれ、雪藍は息を呑んだ。
答えを待たず、その唇は優しく、しかし抗えぬ熱をもって塞がれる。
それは今までとは違う、互いの魂の在処を確かめ合うような、深く、切ない口づけだった。
薄い絹の衣が、はらりと床に落ちる。
肌と肌が初めて触れ合った瞬間の、焼けるような熱。
互いの心臓の音が、一つの響きとなって部屋を満たしていく。
「雪藍……」
彼の囁きが、甘く耳を濡らす。
その声に応えるように、雪藍は彼の背に腕を回した。
もはや言葉は必要なかった。沈丁花の香りが満ちる部屋で、二人の影は月光に溶け、ゆっくりと一つになった。
すべてを受け入れる覚悟を決めた雪藍の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それは恐怖か、歓びか。
朱華はその涙を、唇で優しく拭った。
夜が白み始めるまで、二人は幾度となく互いを求め、名前を呼び合った。やがてすべての熱を分かち合い、絡み合ったままの身体で、互いの心臓の音だけを聞いていた。
朱華は雪藍の髪を撫でながら、静かに呟いた。
「…ああ、『お前』と呼んでしまった。
雪藍……もう『君』という言葉では、この想いは収まりきらない。お前は、俺のすべてだ」
その言葉は、夜の記憶と共に、雪藍の心に深く刻まれた。
朝の光が回廊の隙間から差し込む頃、朱華は腕の中で眠る雪藍の額に唇を落とす。
「愛している、雪藍」
その声に、雪藍はうっすらと目を開け、夢うつつに微笑んだ。
「朱華さま……私も……」
夜の秘密と口づけは、もはやただ甘いだけのものではない。互いの本能を曝け出し、すべてを受け入れ合った、どうしようもなく熱く、激しい記憶となって永遠に二人の心に刻まれた。
宮廷の世界は依然として複雑だが、二人の絆は今や何ものにも揺らぎなく、共に歩む未来を信じる力となった。
現在は、ムーンライトノベルズ版で執筆していますが、
「小説家になろう」R15版としても同時掲載しております。
濃密版(R18)をご覧になりたい方は、18歳未満の方はご注意ください。
下記URLからお楽しみいただければ幸いです。
タイトル: 「控えめな香女は、皇太子殿下の甘い独占欲に囚われ、夜ごと心をほどかれていく」
https://novel18.syosetu.com/n5765la/
どうぞよろしくお願いいたします。感想お待ちしています!




