「砂漠の王子と月光の波紋」
章1:異国の風
西域への旅から戻り、朱華と雪藍の絆は誰の目にも明らかなほどに深まっていた。
宮廷は穏やかな春の喜びに満ちており、静月殿での二人の日々は、満ち足りたものだった。
その平穏に新たな風が吹き込もうとしていたのは、そんなある日のことだった。
静月殿では、侍女たちがいつもより華やいだ声で噂を交わしている。
「まあ、お聞きになりましたか雪藍様! 西域の大国より、新たな使節団が到着されたとか!」
葵が目を輝かせて報告する。
碧葉がそれを補足した。
「お名前はカイ王子と仰るそうです。なんでも、月光を編んだような銀の御髪に、琥珀の瞳をお持ちの、それはそれは美しい殿方だと…」
すると、菫がうっとりと両手を組み、夢見るように付け加える。
「まるで…砂漠に舞い降りた月の神のよう、と皆が噂しておりますわ…」
「まあ…」
雪藍は三人の華やかな噂に微笑みながらも、どこか遠い異国の風を感じていた。
朱華はその日の夕刻、雪藍のもとを訪れると、苦笑しながら告げた。
「明日、そのカイという王子が謁見に来る。どうやら目的は通商だけではないらしい」
「と、申しますと?」
「『璃州国が誇る、最高の香女に会わせてほしい』
と。…つまり、お前のことだ」
朱華の声には、妃を誇る夫としての響きと、ほんのわずかに、まだ彼自身も気づかぬ独占欲の影が落ちていた。
章2:謁見の間の光と影
翌日、大広間は厳かな空気に満ちていた。
玉座に並び坐する皇上と皇后、そしてその御前に立つ朱華と雪藍の前に、異国の王子が歩みを進める。
噂に違わぬ姿だった。陽に焼けたしなやかな身体を異国の装束に包み、流れるような銀の髪、そしてすべてを見透かすような、熱砂の色の琥珀の瞳。朱華が静謐な「夜」の光ならば、カイは眩い「昼」の光そのものだった。
「砂漠の王国より参りました、カイと申します。皇上、皇后両陛下、そして皇太子殿下、妃殿下にお目にかかれて光栄の至り」
その声は涼やかで、自信に満ちていた。儀礼的な挨拶を終えると、カイはまっすぐに雪藍へと視線を向けた。
「妃殿下。貴女が調合される香の噂は、遠く砂漠の我が国にまで届いております。ぜひ一度、そのお力、拝見させていただきたい」
あまりに率直な物言いに臣下たちがざわめくが、朱華は静かにそれを手で制した。
(なるほど、ただの王子ではないな。この目は、本物を見抜く目だ)
朱華は雪藍への誇らしさを感じると同時に、カイの曇りなき視線が、自分の宝である雪藍に注がれている事実に、胸の奥で何かが小さくさざめくのを感じていた。
章3:魂の共鳴
場所は、庭園に面した清涼殿へと移された。
雪藍は、この日のために特別に調合した香を、静かに香炉にくべる。沈香を基調としながらも、わずかに春の梅花を加えた、清らかで奥深い香り。
煙が立ちのぼった瞬間、カイは目を細め、深く息を吸い込んだ。
「…素晴らしい。これは、ただの沈香ではない。極上の伽羅に、春の息吹そのものである梅花をほんの僅かだけ重ねている。花の甘さで木の深みを引き立てるとは…まさに神業だ」
雪藍は息を呑んだ。これまで、彼女の香の意図をここまで正確に、初手で見抜いた者はいなかった。
「……お分かりに、なられましたか」
「分かるとも。私もまた、香に人生を捧げた者。あなたの香には、魂が宿っている」
カイの言葉に、雪藍の瞳が、これまで朱華でさえ見たことのないほどの輝きを放った。
それは、芸術家が、唯一無二の理解者に出会えた瞬間の輝きだった。
二人はその後、まるで旧知の友のように、香について語り合った。砂漠でしか採れない乳香や没薬の話、湿度の違いによる香の変化、互いの国の調香の秘技について…。
朱華は、ただ黙ってその光景を見ていた。
雪藍が幸せそうなのが嬉しい。彼女の才能が認められるのが誇らしい。
だが、同時に胸の奥で、静かな波紋が広がっていくのを感じずにはいられなかった。
(俺の知らない雪藍の顔だ)
自分には分からない言葉で。自分には踏み込めない世界で。雪藍とカイの魂が、深く共鳴している。
それは、朱華がどれほど雪藍を愛していても、決して共有することのできない領域だった。
語らいの終わり、カイは朱華に向き直り、深々と頭を下げた。
「皇太子殿下。どうか、妃殿下のお力をお借りしたい。両国の友好の証として、最高の香を、二人で創り上げたいのです」
その挑戦的とも言える申し出に、朱華は微笑を浮かべて、静かに頷いた。
「よかろう。我が妃の才が、異国との架け橋となるのであれば、これ以上の喜びはない」
その言葉とは裏腹に、朱華の胸の内には、月光が落とした静かな波紋が、いつまでも消えずに揺らめいていた。




