「触れぬ唇の誓い」
章1:師の眼差しと、護身の香り
春祭を数日後に控えた香室は、清浄な緊張感に満ちていた。
雪藍が他の見習いたちと共に、黙々と作業をしていると、すっと襖が開き、香女頭である師匠・翠芳が現れた。
その場の空気が、一層張り詰める。
翠芳は、雪藍が調合した香の煙を一瞥するなり、その歩みを止めた。
「雪藍」
「はい、師匠」
「あなたの香が、乱れています。…恋でもしましたか? 香は嘘をつきませんよ」
雪藍の心臓が、どきりと音を立てて跳ねた。
顔が熱くなるのを、必死で俯いて隠す。
翠芳はそれ以上追及せず、フッと笑うと、春祭で最も重要な儀式で使われる香の準備を、雪藍に一任すると告げた。
そして、去り際に、小さな絹の香袋を雪藍の手に握らせる。
「これは…?」
「覚えておいで、雪藍。香は人を癒しもすれば、時には武器ともなる。この白胡椒のように、少量でも人の五感を強く刺激するものを懐に忍ばせておくのは、後宮で生きる女の、ささやかな護身術ですよ」
翠芳はそこまで言うと、ふと、意味深な眼差しで雪藍を見つめた。
「…特に、鎮西公様のような、野心をお隠しにならぬ方の近くでは、用心するに越したことはありませんよ」
その言葉を残し、翠芳は静かに去っていった。
雪藍は、手の中の香袋と、師の言葉の重みを同時に感じ、胸に小さな不安の棘が刺さるのを感じた。
任された役目は、祭礼のために重臣から献上された「特別な香壺」を清め、準備すること。
雪藍がその豪奢な香壺を手に取った瞬間、彼女の類まれな嗅覚と感覚が、微かな違和感を捉えた。
(何か…違う。香りの調和が、ほんのわずかに…不自然だ。まるで、美しい絹織物の裏に、一本だけ異質な糸が紛れ込んでいるような…)
しかし、それはあまりに微細な感覚。気のせいかと打ち消し、誰にも言えずに一人で不安を抱える。
章2:手の甲に残る熱
不安な心を鎮めようと、彼女は無意識に、先日、朱華に口づけられた手の甲を見つめてしまう。
(あの方の唇の熱が、まだこの肌に残っているようだ…。なぜ、あのようなことを…。けれど、思い出すだけで、この不安な胸が、少しだけ温かくなるのは、どうして…?)
彼のことを考えると、胸が高鳴ってしまう自分に気づき、雪藍は戸惑い、首を振る。
数日後、回廊を歩いていた雪藍は、遠くで臣下たちと話す朱華の姿を見かける。それは、自分に見せる子供っぽく衝動的な顔ではなく、国を背負う、凛々しく威厳に満ちた「皇太子」の顔。
雪藍は咄嗟に柱の陰に隠れ、その姿から目が離せなくなった。
(月夜にわたくしを抱きしめた、強引で熱っぽいあの方と、今、遠くで涼やかな顔をして国事を語るあの方が、同じ人…。…どちらが、本当のあの方なのだろう。…もっと、知りたいと、思ってしまっている…)
この「もっと知りたい」という抗いがたい気持ちこそ、彼女の恋心の明確な芽生えだった。
ただ流されるだけではない。彼女自身の心が、確かに彼を求め始めていた。
章3:躊躇わぬ誓い
その夜、雪藍のもとに、朱華から一通の文が届いた。
「月下の東屋で待つ」
ただそれだけが記された文。
それは彼女の意思を問う、静かな誘いだった。
雪藍は、行くべきか激しく迷う。
しかし、「もっと知りたい」という自らの心に従い、意を決して東屋へ向かう。
そこで待っていた朱華と目が合った瞬間、彼女は来てよかったと心から思った。
「…来てくれたのだな。会いたかった」
その声は、驚くほど素直で、切実な響きをしていた。
雪藍の心臓が、甘く締め付けられる。
彼はゆっくりと近づき、雪藍の目の前で立ち止まる。
「祭りが始れば、こうして会うことも難しくなる。…その前に、一つだけ、確かめさせてくれ」
そう言うと、彼は雪藍の顎にそっと指を添え、顔を近づけてきた。
雪藍の身体が強張る。しかし、逃げようとは思わなかった。
彼の黒曜石の瞳に映る、熱い光。
それに射抜かれ、彼女はそっと、瞳を閉じた。
(ああ、この方に、わたくしは…)
二人の唇が、触れ合うか、触れ合わないか、その寸前――。
カァン、と、夜警の打つ拍子木の乾いた音が、静寂を破った。
ハッとして二人は離れる。朱華は、ばつが悪そうに、しかしその瞳の熱は失わずに、雪藍を見つめた。
「…邪魔が入ったな。だが、覚えておけ、雪藍。
次に会う時、俺はもう躊躇わない」
その力強い誓いの言葉を残し、彼は夜の闇へと姿を消した。
残された雪藍は、破裂しそうな心臓を押さえ、その場に立ち尽くすしかなかった。
唇に残る、触れる寸前の彼の熱。
春祭の本番、運命の夜は、もう目前まで迫っていた。




