「射抜かれる心」
朝の身支度の間、碧葉が雪藍の髪を櫛でといていた。
「雪藍様の御髪は本当に艶やかであられますね。この絹のような黒髪に、瑠璃色の瞳が一層映えて…」
櫛の歯が髪をすべるたび、陽光が黒髪に反射し、きらめく光が雪藍の頬をやわらかく照らす。
雪藍は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう。そう言っていただけると、すごく嬉しいです」
碧葉は小さく首を振る。
「雪藍様、私どものような侍女にそのような言葉遣いをなさらずとも…」
朝餉を片付けていた葵も顔を上げ、あどけなく言った。
「本当ですよ。雪藍様はお優しすぎます」
衣装を用意していた菫は、頬を赤らめながら呟く。
「その自然な優しさこそが…雪藍様をいっそう美しくしているのです」
雪藍は頬を染め、声を少し震わせた。
「私…嬉しいのです。歳の近い姉妹ができたみたいで。私は一人娘で寂しい幼少期を過ごしてきましたから…。だから、せめて私たちだけの時は、仲良くしてほしいのです」
三人は胸の奥が熱くなり、揃って身を屈め、胸前で両手を掲げて拱手する。
碧葉「ありがたきお言葉。心よりお仕えいたします」
葵「雪藍様にお仕えできる私は、本当に幸せ者です」
菫「殿下が雪藍様をお選びになったお気持ち、よくわかります」
雪藍はにっこりと微笑み、まるで姉のように優しく告げる。
「これからも朱華様も含め、私たちのことをよろしくお願いしますね」
―その時。葵がふと顔を輝かせる。
「雪藍様! 本日午後、殿下が庭園で弓の練習をなさるそうです!」
「まあ…知りませんでした。どこでそのような?」
葵は声を潜めつつも弾んだ調子で答える。
「女官も侍女も下女までもが噂をしているんです。儀礼用の衣をまとわれた殿下は、遠目からでも胸がときめくほど…。そのお姿を拝める機会など滅多にありません」
雪藍は小さく息を呑む。
「弓を引く朱華様…。さぞ凛々しく美しいでしょうね」
「雪藍様もご見学なさればよろしいのでは?」
「妃殿下のために弓を引かれるお姿…想像するだけで絵になりますわ」
雪藍は戸惑いながら唇に指を添える。
「でも…私が赴いては練習の邪魔になってしまわないかしら」
葵が力強く言った
。
「妃殿下こそ特等席でございます! 殿下もきっと大喜びなさいますよ」
雪藍はついに微笑んで頷く。
「…では、皆で参りましょう」
庭園。
整えられた射場に武官たちが並び、空気は凛と張りつめていた。
朱華の姿を一目見ようと、女官から下女までが遠巻きに集い、憧れの眼差しを注いでいる。
雪藍は胸の奥にざわめきを覚えた。
(…皆が朱華様を見つめている。けれど、朱華様は…私のもの)
嫉妬とも甘さともつかぬ熱が心に広がる。
やがて、朱華が現れた。
黒曜石の瞳がまっすぐ雪藍を射抜き、一瞬驚いた後、やわらかな光を宿す。
彼は他の女官たちからの熱い視線を背中で遮るようにして、人垣を抜け、真っ直ぐ雪藍のもとへ歩んだ。
「どうした、雪藍。このような場に」
低く響く声には、隠しきれぬ喜びが滲んでいる。
雪藍は頬を染め、視線を揺らしながら答えた。
「朱華様の弓姿を拝見したくて…」
朱華は唇の端を上げ、彼女の耳許で囁く。
「ならば今日の矢はすべてお前のために放とう。
誰一人として、この矢に割って入ることは許さぬ」
雪藍の胸は甘く震えた。
射場に立つ朱華。
弓を掲げるその姿は、氷の彫像のように完璧だった。
矢を番え、弦を引く――指先が白磁のように滑らかで、力強く、そして美しい。
瞬間、空気が張り詰める。
放たれた矢は銀の閃光のごとく宙を裂き、風を従えて的の中心を射抜いた。
乾いた音が響き渡り、場の空気が弾ける。
「――お見事!」
武官たちの声がどよめく。
雪藍は胸の奥をぎゅっと締め付けられた。
(あの矢ではなく、私の心が射抜かれたのね…)
頬は朱に染まり、視線は朱華に吸い寄せられる。
朱華がふとこちらを見やり、片目を細めてウインクを送る。
その一瞬の仕草に、雪藍の心臓は小鳥のように跳ねた。
雪藍は振り返り、背後の碧葉・葵・菫に小声で語りかける。
「……今の、見ましたか? 私、また恋をしてしまいました」
碧葉が思わず胸に手を当てる。
「雪藍様に向けられた眼差しと分かっていても……クラっとしてしまいましたわ」
葵は目を潤ませ、頬を染めて跳ねるように囁く。
「本当です! あれは反則ですよ! 女人なら誰もが倒れてしまいそうになります!」
菫は夢見るように両手を組み合わせ、恍惚とした声を洩らす。
「殿下の黒曜石の瞳と、雪藍様の瑠璃色の瞳が一つに溶け合って……まるでお二人だけの世界に」
雪藍はますます赤面し、胸を押さえて俯いた。
「も、もう……皆さんまでそんなことを……」
それでも心の奥では、三人の言葉に大きく頷いている自分がいた。
練習が終わると、朱華は迷いなく雪藍のもとへ歩み寄った。
「雪藍、少し歩こう」
侍女たちは自然と距離を取り、二人は庭園の小径を並んで歩く。
朱華は雪藍の手を取り、微笑む。
「冷たいな。緊張してたのか?」
「…朱華様があまりに凛々しくて、胸が高鳴ってしまって」
朱華は立ち止まり、耳元で囁く。
「なら、これからも俺だけを見ていろ。お前の心を射抜き続けるから」
雪藍は頬を染め、袖を握る。
「…はい。ずっと、私の朱華様でいてください」
朱華は満足げに微笑み、彼女の額にそっと唇を触れさせた。
「お前がそう言う限り、俺はずっとお前のものだ」
清月殿に戻ると、朱華は侍女たちを下がらせ、二人きりになる。
静寂の中、朱華は雪藍の顎をそっと持ち上げた。
「さっきの射場で、お前が俺を見ていた顔…忘れられない」
雪藍は視線を逸らせず、胸が熱くなる。
「…私も、朱華様のすべてでありたい。誰よりも近くで、ずっと」
朱華は彼女の手を取り、指先に軽く口づけを落とす。
「約束だ。お前を離さない」
雪藍はその温もりに包まれながら、ふと小さく笑った。
「…私、また恋をしてしまいました。あの矢のように、胸の奥深くまで」
朱華は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「なら、俺もだ。お前に恋をし続けている」
二人の間に、言葉よりも深い沈黙が落ちた。
それは、互いの心音だけが確かに響く、甘く静かな時間だった。
その夜、雪藍の寝所には行灯の柔らかな光が揺れていた。
几帳の内側、二人は並んで横になっている。
外では虫の声が遠くに響き、秋の夜気が障子の隙間からそっと忍び込んでくる。
朱華は雪藍の髪を指先で梳きながら、低く囁いた。
「こうして隣で眠れる夜が、一番落ち着く」
雪藍は頬を朱に染め、視線を合わせる。
「私も…朱華様の温もりを感じながら眠れるのが、一番幸せです」
朱華は微笑み、彼女の額に唇を落とす。
「明日も、その先も…お前の隣にいる」
雪藍は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、そっと目を閉じた。
(同じ人に、幾度でも恋をしてしまう…これから先もずっと)
そのまま、朱華の腕の中で、雪藍は静かに甘い夢へと沈んでいった。
夢の中でも、朱華は変わらず彼女を見つめ、微笑んでいた。




