「朱華様のもう一つの顔」
璃州国の朝、宮廷の大広間は張り詰めた静寂に満ちていた。
香炉から立ちのぼる沈丁花と梅香の混じりあった芳香が、凛とした場をさらに引き締めている。
今日は、皇上の命により、皇太子朱華と皇太子妃雪藍が夫婦として揃って初めて公務に臨む日。
諸臣や使者たちが整列し、扉が開くと同時に二人は姿を現した。
朱華は玉座の前に立ち、声音を張る。
「皆の者、よく集まってくれた。璃州国は天命をいただく国、この朱華が先頭に立ち、民と共に歩み続けることを誓う。諸国に伝えよ──この国は揺るがぬと」
その一言に広間がざわめき、使者たちは思わず背筋を正した。
堂々とした姿は、普段雪藍が知る甘やかで柔らかな朱華とはまるで違う。
雪藍が袖を直そうとして軽くつまずいた瞬間、朱華は諸臣に向けた視線を外さず、しかし自然な動きでその手を支えた。
「落ち着け。俺の隣にいる限り、何も恐れるな」
その威厳ある囁きに、雪藍の胸は大きく震えた。
─ああ、この人は本当に国を背負って立つ方なのだ。
(昨夜、悪夢に怯えていたのが嘘のよう。この光がある限り、もう二度と闇は訪れない)
そして、その隣に立つことを許されているのは、この私なのだ。
その実感が、甘くも苦しいほどの誇りとなって胸を満たす。
朱華様は、まるで玉座の光そのもの──触れれば焼かれるほど眩しいのに、雪藍だけはその光に抱きしめられているようだった。
式は滞りなく終わり、広間を退場する二人を、臣下や使者たちは深々と拝礼して見送った。
雪藍の耳には、残響のように朱華の声がまだ響いていた。
公務を終え、静月殿に戻った二人。
白梅の香がほのかに漂い、簾越しに差し込む夕陽が、朱華の横顔を金色に染めていた。
外から吹き込む春風が、雪藍の袖をふわりと揺らす。
雪藍はそっと朱華の前に膝をつき、視線を落としたまま、胸の奥の熱を押し出すように口を開いた。
「……朱華様。今日のあなたは……本当に、光そのものでした。私の知る誰よりも強く、誇らしくて……」
朱華はわずかに目を細め、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「お前がそう見てくれたなら、それで十分だ」
雪藍は首を振り、唇を噛む。
「いいえ……あの堂々としたお姿に……わたし、また惚れ直してしまいました。
普段の優しい朱華様も大好きですが……ああして国を背負うあなたも、たまらなく…」
言葉が途切れ、頬が熱を帯びる。
朱華はゆっくりと歩み寄り、雪藍の顎を指先でそっと持ち上げた。
その指が触れた瞬間、雪藍の心臓が跳ねる。
「……もう一度、言ってくれ」
低く、耳の奥に残る声。
雪藍は震える息を整え、朱華の瞳をまっすぐ見つめた。
「愛しています。世界のすべてを差し出しても、あなたを愛しているのです」
次の瞬間、朱華の瞳に烈しい光が宿り、腕が雪藍の腰を引き寄せた。
「馬鹿者……そんな言葉を聞かされて、俺がどうなると思う」
吐息が頬をかすめ、唇が重なる。
長く、甘く、息を奪う口づけ。
白梅の香と、朱華の体温が雪藍を包み込み、世界が二人だけになる。
唇が離れたあとも、朱華の額は雪藍の額に触れたまま。
「雪藍……お前は俺の唯一だ。国も命もすべて、お前のためにある」
その囁きに、雪藍は胸に顔を埋め、涙まじりの笑みを浮かべる。
「……幸せすぎて、息が苦しいほどです」
朱華はその髪を撫で、耳元で静かに告げた。
「なら、もっと苦しませてやる。俺の愛で」
その夜、静月殿は深い静けさに包まれていた。
障子越しの月明かりが、二人の影を淡く重ね、白梅の香が夜気に溶けて漂う。
外では風が庭の砂をさらい、遠くで水琴窟がひとしずく、澄んだ音を響かせた。
朱華の指先が、雪藍の髪をゆっくりと梳く。
その動きは、まるで宝物を扱うように慎重で、同時に離すことを知らない熱を帯びていた。
雪藍はその胸に身を委ね、鼓動の音を耳の奥で数える。
一拍ごとに、互いの距離がさらに近づいていくようだった。
「……雪藍」
低く呼ばれた名は、夜の闇よりも甘く、月光よりも深い。
雪藍はそっと顔を上げ、その瞳に映る自分を見つめ返す。
そこには、威厳ある皇太子でも、国を背負う光でもない──ただ一人の男としての朱華がいた。
唇が触れ合うたび、時間はゆるやかに溶け、外の世界は遠ざかっていく。
白梅の香と、肌を撫でる夜風と、互いの温もりだけが確かにそこにあった。
やがて二人は言葉を交わさず、ただ視線と指先で誓いを結ぶ。
その誓いは声よりも強く、月の光のように静かに、しかし確かに刻まれていった。




