「葡萄酒の滴と夜の聖域」
章1:侍女たちの、ささやかな願い
静月殿の夕暮れは、茜色の光が絹の帳を透かし、沈丁花の香がほのかに漂っていた。
卓上には、香草を添えた川魚の焼き物や梅の菓子が並び、月光が硝子の杯に虹色の輝きを投げかける。
夕餉の準備をしながら、侍女たちがひそやかな囁きを交わしていた。
「近頃の朱華様、政務でお疲れのご様子…。雪藍様も、何かご心配なご様子ですし…」
と、葵が眉を下げる。
碧葉も頷いた。
「そうね…。何か、お二人の心が晴れるようなことがあれば良いのだけれど…」
すると、菫が懐から小さな花の蕾が入った小瓶を取り出す。
「これは、『夢見の花』。ほんの少しだけ果実酒に混ぜれば、人の心を解き放ち、素直にさせると言います…。ほんの、少しだけ…」
碧葉は一瞬ためらうが、葵が「素晴らしい案です!」と目を輝かせ、三人は顔を見合わせて頷いた。
そこへ、朱華が政務を終え、軽やかな足取りで現れた。手には、異国の葡萄酒が携えられている。
侍女たちは、そっと菫の合図で、葡萄酒に花の魔法をかけた。
「雪藍、今宵は特別な夜にしよう。異国の葡萄酒だ。一緒に味わってくれ」
彼の声は柔らかく、目元に愛情と悪戯が混じる。雪藍は杯を受け取り、そっと唇を寄せた。
「風味豊かで……まるで朱華様の温もりのような香りです」と、頬を桜色に染めて微笑む。
章2:酔いに任せた、大胆な告白
夕餉が進む中、雪藍は杯を重ね、その頬には、いつもより早く、ほろ酔いの笑みが浮かんでいた。
侍女が葡萄酒を注ぐたび、「妃様、杯が多すぎます!」と碧葉が慌てるが、雪藍は「大丈夫、今日は楽しみたいの」と軽く笑って押し切る。
彼女の声が弾み、普段の丁寧な敬語が少しずつ崩れる。
「朱華様の剣を持つ手、力強くて……でも、私を抱くときは優しくて、ふふ、素敵です」
照れながらも大胆に囁く。
侍女たちが「妃様、そ、そんな大胆な!」と顔を赤らめ、肩を震わせる。
朱華は杯をそっと雪藍の手から取り上げ、眉を寄せた。
「雪藍、ほどほどにしろ。こんなお前を見ていると、俺の理性が……いや、皇太子の威厳も忘れて、お前を抱きしめたくてたまらなくなる……」
彼の指が雪藍の髪をかき上げ、熱を帯びた視線が彼女の瞳に絡まる。
雪藍はくすくすと笑い、朱華の袖を軽く引っ張る。
「大丈夫です、朱華様! 夜はこれからですよ!」
その大胆な言葉に、侍女たちが「か、畏まりました妃様!」と慌ててお辞儀し、そそくさと退出の準備を始める。
その際、しっかり者の碧葉が、卓に置き忘れられた雪藍の扇に気づく。
(後でそっと寝所にお届けしよう)と、彼女は扇を手に取って退室した。
しかし、廊下に出た直後、まだ興奮冷めやらぬ葵に「見ましたか、今の殿下のお顔!」と袖を引かれ、
その拍子に、碧葉は気づかぬうちに、手から扇を滑らせて落としてしまった。
部屋に残った雪藍は、なおも杯を傾け、葡萄酒を口に含んだまま朱華に口づけする。
甘い滴が彼の唇に流れ込み、沈丁花の香りと混ざり合う。
「お前……こんなことをしたら、俺はもう止まれない」
朱華が囁き、雪藍の腰を引き寄せた。
「朱華様、もっと……近づきたい」
吐息混じりに答え、二人の夜が深まっていった。
章3:聖母に甘える夜
月光が静月殿の絹の帳を透かし、雪藍と朱華の吐息が響き合う。
二人は口づけを交わしながら、互いの衣を解く。
葡萄酒の滴が雪藍の鎖骨に落ち、月光に輝いた。
「朱華様……この香り、私を貴方に近づける……」
雪藍はほろ酔いの瞳で囁く。
「お前の肌は月光より柔らかく、俺の理性を溶かす……」
朱華が応え、彼女の首筋に唇を寄せる。
朱華は雪藍を軽々と抱き上げ、寝所へ運ぶ。
絹の寝具にそっと寝かせると、彼女の髪が月光に銀の糸のように広がる。
雪藍が両手を広げ、ほろ酔いの笑みでねだる。
「朱華様……早く、私のそばに……貴方がいないと、寂しいの……」
朱華は彼女の手を取り、指先に口づけを落とす。
「お前のその声、俺の心を縛る鎖だ。もう離れられない……」
彼が寝具に身を寄せると、雪藍の腕が朱華の首に絡まり、積極的に口づけする。
「今夜は私から……貴方を離さない…」
彼女の吐息が彼の耳元を焼いた。
「お前がそんな目で俺を見るなら、俺はもう皇太子でいられない……」
朱華が声を震わせ、彼女の背を滑る指に熱がこもる。
朱華の唇が雪藍の胸に触れ、月光に照らされた肌が白く輝く。
「雪藍、今日はお前に甘えたい…。これまで俺は、お前を『守るべきか弱い存在』だと思っていた。
だが違う。鳳凰の舞を見て、分かった。お前は、俺と並び立つ、俺の唯一の妃だ。
…だから今夜は初めて、ただの男として、お前の大きな愛に…甘えさせてくれないか」
その切実な願いに、雪藍の瞳は慈愛に満ちた輝きを宿す。彼女は彼の頭を優しく撫で、そのすべてを受け入れるように微笑んだ。
「朱華様、今宵はまるで赤子のよう……でも、こんな貴方が、愛おしい……」
雪藍が彼の頭を胸元へ抱き寄せると、
「赤子だと言うなら、お前は俺の全てを包む聖母だ……」
そう囁き、彼女の温もりに顔を埋めた。
その言葉を合図に、二人の影は月光の下でひとつに溶け合った。
夢見の花の香りと葡萄酒の甘さが満ちる部屋で、二人は言葉なく互いを求め、肌を重ねた。
それは、彼がその魂のすべてを彼女に委ね、彼女がその大きな愛で彼を包み込む、初めての夜だった。
章4:扇の行方と、朝の光
月光が静月殿を柔らかく照らし、雪藍と朱華の汗に濡れた肌に銀の輝きを投げかける。
雪藍はほろ酔いの笑みを浮かべ、朱華の胸に顔を寄せる。
「朱華様……今夜の私、ちょっと大胆すぎました? ふふ、葡萄酒のせいにしてしまおうかしら……」
朱華は苦笑し、彼女の髪を撫でる。
「雪藍、お前の大胆さは葡萄酒のせいだけじゃないだろう? あの鳳凰舞の夜のウインクも、書庫で俺をからかったあの笑顔も……まったく、お前には敵わない」
彼が額に口づけすると、雪藍は幸せそうに目を閉じ、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
その頃、侍女部屋では――
その日の出来事を思い出して、三人が頬を染めていた。ふと、碧葉がはっとした顔で立ち上がる。
「大変です!思い出しました!妃様が夕餉の席でお忘れになった扇…!」
「ああ、あの鳳凰の扇ですね」と菫が応える。
「ええ。わたくしが後でお部屋にお届けしようと、退出する際に確かに手に取ったはずなのですが…」
碧葉はそう言うと、自分の周りや袖の中を探る。
しかし、扇はない。彼女の顔が、さっと青ざめた。
「ありません…!どこにも…!」
「ええっ!?どこかで落としてしまったのでは…!」
と葵が慌て、菫も「もし無くしたりしたら…」と顔を青くする。
三人は主たちの眠りを妨げぬよう、静月殿の廊下へと扇を探しに戻った。
廊下は月明かりに照らされ、静まり返っている。
「あった!良かった…!」
葵が、廊下の隅に落ちていた扇をそっと拾い上げた。
碧葉が安堵の息をつく。
「まったく…。でも、きっと妃様は、この扇のことなど忘れるほど、幸せな夜をお過ごしなのでしょうね」
菫が、うっとりと続けた。
「ええ…。この扇が、お二人の愛の舞の続きを、いつまでも見守ってくれますように…」
菫はそう言うと、拾い上げた扇を、そっと寝所の扉の前に立てかけた。月光が、扇に描かれた鳳凰を、優しく照らし出していた。




