「秘められた舞の稽古」
章1:皇后の密命
静月殿に、絹の衣擦れの音とともに尚宮が現れた。
皇后に最も近しく仕える女官である。
彼女は、深々と一礼し、声を落として告げた。
「皇后様よりお召しでございます。すぐに御前へお越しくださいませ」
雪藍は驚きに息を呑み、衣を整えながら答える。
「皇后様が……。はい、すぐに参ります」
後宮の清らかな一室。皇后・玲瓔は扇を手に雪藍を迎え、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「三月後、周辺国の使節を迎える大宴が開かれます。
その宴で――あなたに『鳳凰舞』を舞っていただきたいのです」
雪藍は言葉を失う。
「わ、私が……舞を……? そんな大役……」
玲瓔は頷き、目を細める。
「大役だからこそ、皇太子妃であるあなたに任せたいのです。王朝の繁栄と天命の正しさを示す舞。若き日の私も舞いました」
「皇后様も……?」雪藍は驚きの声をあげる。
「ええ、足が震えて、裳裾を踏みそうになったこともあったのですよ」
玲瓔は苦笑し、思い出すように扇で口元を隠した。
「でも、不思議と舞い終えたときには――その震えが自信に変わっていました」
雪藍は胸に手を当て、震える声で答える。
「……私に務まるでしょうか。けれど……国のため、皇上と皇后様のため、そして……朱華様のために。必ずや精一杯」
玲瓔は雪藍の手を包み込み、にっこりと微笑んだ。
「ただし、このことは朱華には内密にしておきなさい。あの子はあなたのこととなると政務を放り出し、舞の稽古場に入り浸るでしょうからね」
二人は思わず顔を見合わせ、くすりと笑った。
章2:天女への道
翌日から、舞女頭の厳しい稽古が始まった。
朝靄の残る稽古場に、張り詰めた空気が満ちる。
磨き込まれた板の間は冷たく、雪藍の足裏からじわりと緊張が這い上がってくる。
舞女頭は背筋を真っすぐに伸ばし、鋭い眼差しで雪藍を見据えていた。
年の頃は五十ほど、白粉の下に刻まれた皺は、幾百の舞を見届けてきた証。
その視線は刃のように冷たくも、奥底に炎のような情熱を宿している。
「腕を天へ伸ばして! 指先は鳳凰の羽!」
鋭い声が響くたび、雪藍の肩がわずかに震える。
「もっと軽やかに! 足の運びは風に舞う花のように!」
裳裾がふわりと翻り、汗を含んだ布が肌に張りつく。足裏の豆が裂けるたび、息が詰まりそうになる。
舞女頭は一瞬、口元をわずかに緩めたが、すぐに厳しい面持ちに戻る。
「……まだだ。鳳凰は、ただ美しく舞うだけではない。天を制し、地を守る威を持つのだ」
その言葉に、雪藍の背筋がさらに伸びる。
(天を制し、地を守る威…。『家の器』として、心を殺して生きてきたわたくしに、そんな威厳が…?いいえ、今のわたくしは、ただの雪藍ではない。朱華様の妃なのだから!彼に、そしてこの国に、ふさわしい光を放たねば…!)
胸の奥で鼓動が高鳴り、呼吸は浅く速くなる。
それでも腕を伸ばし、指先にまで意志を込める。鳳凰の羽ばたきを思い描き、足先は風を追い、裳裾は花びらのように舞った。
章3:夫婦の駆け引き
稽古を終える頃には、雪藍の髪は汗で額に貼りつき、足は重く鉛のようだった。
夜の帳が降りる中、足を引きずりながら静月殿に戻る。侍女たちに支えられ、ようやく自室の近くまでたどり着いた、その時だった。
ひょいと、朱華が姿を現した。
「雪藍、今日はやけに疲れているな。……足を痛めたのか?」
雪藍は裳裾を押さえ、慌てて笑う。
「い、いえ! ちょっと……庭で転んでしまっただけです!」
その言葉に、背後で控えていた侍女たちが、必死の援護射撃に入る。
「そ、そうです!先ほど庭園で、勢いよく駆けてきた兎に驚いて転ばれて…!」
葵が元気よく、しかし的外れな言い訳をすると、碧葉が「葵!」と小声で叱り、必死に軌道修正をした。
「こほん!…葵の言う通り、足元が少し、おろそかになっただけでございます。お疲れなだけですので、ご心配には及びません」
すると今度は、菫が一人だけ違う世界を見ているかのように、うっとりと呟いた。
「…あまりに、月がお美しくて…つい、見惚れていらしたのやもしれません…」
「……昼間だが?」
朱華の冷静なツッコミに、侍女たちは冷や汗を流しながら深々と頭を下げた。
(――ばれたら絶対、稽古場に毎日押しかけてくる……!)
雪藍は心臓をどきどきさせながら必死に笑顔を保つ。
朱華はしばし彼女たちの拙い芝居を見つめ、やがて、ふっと柔らかく笑った。
「……隠し事をしている顔も、やはり可愛い」
「っ……! な、何も隠してなど……!」
雪藍の耳まで赤く染まり、侍女たちは思わず口元を押さえる。
朱華はそっと彼女の頬に触れ、低く囁いた。
「……無理はするな。お前が倒れでもしたら、俺は何もかも手につかなくなる」
雪藍の胸は甘く熱くなり、瞳を潤ませて小さく頷く。
「朱華様…」
その甘い光景に、侍女たちは息を呑んだ。
「……このお二人……もう、心臓がもちませぬ…」
こうして雪藍は、大切な秘密を胸に、朱華に悟られぬよう必死に稽古を重ねていった。




