「唇の刻印」
その夜、朱華は奥庭にある月見台の柱の陰に、息を潜めて立っていた。
彼が待っていたのは偶然ではない。
宮中で最も香りに詳しい宦官に、「今宵、月下美人が咲く」という事実と、「その花は極上の香材となる」という知識を、それとなく聞き出していたのだ。
(来るはずだ。あの香りを纏う、瑠璃色の瞳の娘が)
ただの勘。しかし、それは揺るぎない確信でもあった。
やがて、月光に照らされた小径に、待ち望んだ人影が現れる。
白い面紗をつけた、名も知らぬ見習い香女。
彼女が、庭の中心で白く清らかに咲き誇る月下美人の前に立ち、そっと花に手を伸ばした、その瞬間だった。
朱華は衝動のままに柱の陰から躍り出て、音もなく彼女の背後へと回り込んだ。
そして、ふわりと、その身体を背後から包み込む。
「っ…!?」
悲鳴を上げる間もなく、逞しい腕が彼女を後ろから固く抱きしめる。誰、と恐怖に身体が強張るが、次の瞬間、うなじに寄せられた顔から、あの香りを感じ取った。
(…皇太子様…!?)
彼だけが纏う、沈丁花と白檀の、深く、そして官能的な香り。
彼女の心臓が、恐怖とは違う理由で激しく跳ねる。
朱華は何も言わず、ただ彼女の肩口に顔を埋め、まるで渇きを癒すかのように、その香りを深く吸い込んだ。
「…すまない」
やがて、彼の唇から漏れたのは、苦しげな囁きだった。
「だが、君の香りを嗅がないと、気が狂いそうだ。……もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
その声は、皇太子としての威厳など微塵もなく、ただ一人の男としての、抑えきれない衝動に満ちていた。
彼女は抵抗することもできず、彼の腕の中で固まったまま、月下美人の甘い香りと、彼の熱い吐息に身を震わせる。
「…君の名は、何という」
耳元で、熱い吐息と共に囁かれる。それは、抗うことのできない、甘い命令だった。
「…せ、雪藍…と、申します…」
「雪藍…」
彼は、まるで宝物の名を確かめるように、その名を繰り返した。
「良い名だ。…俺の名は、朱華だ。覚えておいてくれ、雪藍」
朱華――。
雪藍は、初めて聞いたその響きを、心の中でそっと反芻した。
やがて彼は、名残惜しそうに、しかし素早く腕を解くと、再び闇の中へと姿を消した。
一人残された雪藍は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で柱に寄りかかって堪える。
背中に残る彼の腕の感触と、耳に残る熱い囁き。
そして、初めて交わした、互いの名。
彼女は、闇に向かって、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「……朱華様……」
翌日からの数日間、雪藍は皇太子の姿を見かけることはなかった。
しかし、彼女の心は以前よりもさらに乱れていた。
(朱華様…)
彼の名を心で呼ぶたびに、月下美人の夜が蘇り、顔が熱くなる。
そんなある日、雪藍は「新しい香の選定」という名目で、朱華の私室へと呼び出された。
部屋には彼一人。緊張しながらも香の説明をする雪藍に、彼はただ静かに耳を傾けていた。
(駄目だ、これ以上は…。このままでは、理性が…)
朱華は、彼女の姿を間近に見るだけで、昨夜の衝動が蘇りそうになるのを必死で堪えていた。
彼は自ら議論を打ち切ると、雪藍に退出を促した。
雪藍が「では、失礼いたします」と深く礼をして、部屋を出ていこうとした時だった。
「待て」
低い声に呼び止められ、振り返る。
朱華が、いつの間にかすぐそばに立っていた。
(せめて、ほんの一瞬だけでも…触れたい)
その渇望が、彼の理性を上回った。
彼は無言のまま、雪藍の手を取る。
「朱華様…?」
驚く雪藍を、彼はただ、熱を帯びた黒曜石の瞳で見つめる。
そして、その白い手の甲を、自らの唇へとゆっくりと引き寄せた。
「っ……!」
柔らかな唇が、肌に押し当てられる。
その感触は、焼印のように熱く、雪藍の全身を甘い痺れが駆け巡った。
唇に口づけたい。
このまま腕の中に閉じ込めてしまいたい。
その激しい衝動を、朱華は必死に押し殺していた。
手の甲への口づけは、彼に残された、最後の理性の形だった。
手の甲から唇を離すと、彼はまるで何事もなかったかのように、静かに告げた。
「…下がってよい」
皇太子としての、冷ややかな声音。
その言葉と、先ほどの熱い行為とのあまりの落差に、雪藍の心は混乱の極みにあった。
彼女は震える足でなんとか一礼すると、逃げるように部屋を後にする。
一人残された部屋で、朱華はそっと自らの唇に指で触れた。まだ、彼女の肌の滑らかさと、驚きに揺れた瑠璃色の瞳の残像が、そこにはあった。
(…駄目だ。触れれば触れるほど、渇きは増していく。俺は、いつまでこの理性を保てるのだ…?)
一方、自室に戻った雪藍は、朱華に口づけられた手の甲を、もう一方の手でそっと包み込んだ。
(あの方は、一体……わたくしを、どうしたいというのだろう…)
唇の感触が、まだ生々しく肌に残っている。
それは、決して消すことのできない、甘い愛の刻印だった。




