「静月殿の婚礼の夜」
章1:静月殿、初めての夜
皇太子朱華の妃となった雪藍には、御前の勅命により、皇太子妃としての格式にふさわしい『静月殿』が与えられた。
そして今宵、そこへ朱華が初めて訪れる。
「雪藍様、お美しい…」
鏡の前で紅の羅衣を纏う雪藍の姿に、新たに妃付きとなった侍女、葵が感嘆の声を漏らした。
碧葉がその髪に金の簪を挿しながら、静かに頷く。
「ええ。まるで天女様が舞い降りたかのようですわ」
菫は、香炉の火加減を整えながら、うっとりと呟いた。
「この夜合香の香りと、雪藍様の美しさが溶け合って…今宵は、きっと忘れられぬ夜になりますね」
雪藍は、妃として初めて夫を迎え入れることに、胸の奥から震えるような緊張を覚えていた。
(これからは、私が朱華様の隣に立つ…)
胸に手を当てると、鼓動が早鐘のように打ち、衣の下で熱が広がる。
一方、紫宸殿から静月殿へと向かう道を歩みながら、朱華もまた心を鎮めようと深く息を吐いていた。
(雪藍を……正式に妻として迎える夜が来た)
強くあろうとするほどに胸の高鳴りは収まらず、掌にはじんわりと汗が滲む。
格式に慣れたはずの足取りが、今夜は妙にぎこちない。
「なぜ俺はこんなにも緊張しているのだ…。何度も閨を共にした、誰よりも知っているはずの女だというのに。いや、だからこそか。恋人であった彼女が、今宵からは我が妃となる。その変化に、俺自身が戸惑っているのか…」
扉の向こうから、ほのかに夜合香が漂ってきた。
香炉に焚かれているのは、南嶺より献上された「夜合香」
――月下にのみ咲く夜合花の花芯から抽出された秘香である。
沈香に似た深みのある香気に、夜合花特有の青みがかった甘苦さが混じる。
古来より「心を高め、感覚を研ぎ澄ます」とされ、婚礼の夜にのみ焚かれることが許されていた。
その煙は、嗅ぐ者の心拍をわずかに高め、肌の温度を感じやすくし、言葉よりも視線と
呼吸が雄弁になると伝えられている。
その甘苦い香気が、彼の理性を静かにほどいていく。
扉の前で一度、深く息を吸い込むと、朱華は一歩、寝殿の中へと足を踏み入れた。
章2:皇太子の跪拝
几帳の向こうから、雪藍が現れる。
紅の羅衣に牡丹の刺繍、金の簪が月光を受けて微かに光る。
その姿は、何度も見たはずなのに、今夜はまるで初めて見るような気がした。
「緊張なさっているのですか?」
雪藍の声は、香煙に包まれて柔らかく響いた。
朱華は、わずかに笑みを浮かべる。
「分かるか?…柄になく緊張してしまっている」
「ふふ…『皇太子殿下』と『皇太子妃』としてこうして向き合うのは、初めてですものね。私も同じです」
寝殿の中央には小卓が設えられ、銀の盃が二つ、交杯酒が注がれている。
雪藍が盃を手に取り、朱華に差し出す。盃を交わし、互いの瞳を見つめながら、静かに酒を口に含んだ。
盃を置いた瞬間。朱華は、雪藍の前に進み出ると、ひざまずき、まるで臣下が主君にするように、彼女の衣の裾にそっと口づけをした。
「しゅ、朱華様…!何を…」
驚く雪藍に、朱華は顔を上げて微笑む。
その瞳は、絶対的な愛と敬意に満ちていた。
「これまでは、俺がお前を導いてきた。だが今宵からは、お前が俺の唯一の妃だ。…どうか、俺を、お前の夫として導いてほしい」
そのありえない光景と、真摯な言葉に、雪藍の胸は熱く震えた。
章3:夜合香にほどける心
彼女はそっと朱華に近づき、その瞳に宿る緊張と愛を捉える。
指先が、まるで禁断の果実を愛でるように震えながら、朱華の頬に触れた。
「今宵は、私が…朱華様を愛します」
と囁く声は、夜合香の煙に誘われ、熱く震えていた。
雪藍の唇が朱華の唇に激しく重なり、まるで魂を奪うかのような口づけに、朱華の息が止まる。
「雪藍…お前…!」と驚きと歓喜が交錯する声が漏れる。
彼女の手は朱華の紅の礼服の紐を解き、彼自身もまた、彼女の羅衣を滑らせる。
月光に照らされた互いの肌が露わになった。
雪藍は朱華の手を引き、寝所へと導く。そっと朱華を押し倒すと、彼女の唇に妖しい微笑みが浮かんだ。
「どうしたんだ、雪藍…今宵のお前は、まるで別人だ。…これも、あの夜合香のせいか?」
朱華が掠れた声で呟くと、雪藍はくすりと笑い、甘く扇情的な声で囁いた。
「…いいえ。香のせいだけではございません。これは、ずっと胸の奥に隠していた、あなた様を求めるわたくしの本当の心です。香が、その心の扉を開いただけ…」
その言葉が引き金だった。
朱華の理性の箍は完全に外れ、彼は雪藍の身体を強く抱きしめ返す。
夜合香の香りが二人の情熱をさらに煽り、寝殿の空気を熱くする。
どちらが導き、どちらが導かれるでもなく、二人の影はひとつに溶け合った。
これまでの恋人としての時間とは違う、夫婦として初めて交わされる愛。
それは、互いの魂のすべてを確かめ、己のすべてを捧げ合う、激しくも神聖な儀式だった。
章4:侍女たちの祈り
月光と紅燭の揺らぎの下、二人は互いの鼓動を感じながら、静かに余韻に浸った。
朱華は彼女を抱き寄せ、そっと囁く。
「雪藍…お前は俺の全てだ。永き日々を、共に歩もう」
雪藍は彼の胸に身を寄せ、
「はい、朱華様…。そして、あなた様も…わたくしの全てです」
その言葉に、二人の愛は、初夜の寝殿で永遠の契りを結んだ。
寝殿の外で、ずっと息を潜めて控えていた侍女たちが、その静かな気配を察してそっと顔を見合わせる。
葵が、小声で、しかし感極まったように囁いた。
「…終わられたのかしら…」
碧葉が、その口を慌てて手で制す。
「静かになさい。…ですが、今宵のお二人は、きっと…」
菫が、涙ぐみながら、うっとりと続けた。
「ええ。…月よりも、星よりも、美しく輝いていらっしゃったことでしょうね…」
三人は、主たちの幸福を祈るように、静かに、そして深く頭を下げた。




